熊野シークレットツアー 4 補陀落渡海
このグループは、関西地方から、他にも、奈良県の吉野から、和歌山県の熊野の奥地に逃げていたようです。
「熊野」は、今までに、4回ほど訪れていますが、この土地を旅していて感じたのは、「王子」という名前がつく神社が、たくさんあるということです。
一般的には、「王子」とは、「熊野権現の御子神」だと、考えられているようです。
昔から、不思議だったのですが、そもそも、どうして、「熊野」というのでしょうか?
この土地に、たくさんの「熊」が生息している「野山」というわけでも、なさそうです。
調べると、元々は、「熊」という文字は、「畏」だったそうです。
「畏れ多い」
という表現で使いますね。
つまり、「熊野」という土地は、「畏の」という意味で、
「畏れ多い神々の住む聖地」
という意味だそうです。
「王子神社」というのは、大阪あたりから始まり、和歌山県の熊野まで、北から南に、広く分布しています。
それらは、総称して、「熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)」と呼ばれていたそうです。
一般的には、「九十九」というのは実際の数ではなく、「数が多い」という意味で使われることが多いですね。
しかし、、実際、最盛期には、99ヵ所くらいの「王子」と呼ばれる土地があったそうです。
ここからは、私の想像です。
おそらく、このエリアには、38人の子孫の末裔がいたのだと思います。
そして、99人の王子、つまり、天皇家のリーダーが、99人住んでいたのだと思います。
99のグループに、分かれていたのだと思います。
しかし、よくよく考えてみてば面白い話です。
歴史上、いつの時代も、どこの国でも、「王様」は一人だけです。
そして、「王子様」も、数人くらいしかいなくて、「王様」の椅子を狙って、王子様同士で、喧嘩したり、戦争することになると、だいだい決まっています。
また、「王子」という単語も、日本的ではありません。
中国などの大陸での称号ですね。
おそらく、「天照派」の人々は、絶対平和主義だったから、そもそも争わなかったのだと思います。
そして、「王座を狙う」などという椅子取りゲームにも、興味がなかったのだと思います。
99人も王子様がいたのならば、それから先の時代に、少なくする方向ではなかったと思います。
もっと多くしようと思っていたと思います。
最終的には、99人どころか、999人、9999人、99999人…
こんなかんじで、日本全国、全ての人々が、「王子」の身分になるような国家を目指したのではないでしょうか?
つまり、現代の「国民主権」や「民主主義」を、この時代に思い描いていたのではないでしょうか?
そして、そんな彼らが夢を見て、最初に、実現させたのが、天下泰平だった、「江戸時代」だったのではないでしょうか?
現代は、いつでも美味しいものが、食べれれて、皆が、飛行機や新幹線で、いろいろなところに、旅行に行けますね。
まさに、「国民皆王子」の時代ですね。
この時代に、未来の「民主主義」を思い描いた、99人の王子たちのことをイメージしていたら、目から涙が出てきました。
絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、ある時期から、関西を中心にした西日本では、閉塞状態になっていたようです。
陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。
そもそも、仮に東日本に行っても、当時は、大半の土地は、荒れた僻地だったので、行ってもそこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。
それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。
「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」
ある時、こう決意したのだと思います。
しかし、海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。
そんなとき、一人の救世主が現れます。
「聖徳太子」
この人物が助けたのです。
聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが始まったのです。
救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。
私は、「聖徳太子=キリスト説」を主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。
聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。
彼らにとっては、「西日本」は、まるで監獄にいるように、不自由な土地でした。
そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。
よいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!
熊野地方には、日本史における、最重要な寺があります。
「補陀落山寺」という小さなお寺です。
今回の旅では、ここも訪れました。
2回目の訪問でした。
寺に着いたのは、夕方でした。
なんと、「世界遺産」に指定されています。
ここにも、「八咫烏」がいました。
本堂です。
「補陀落渡海寺」と書かれています。
境内には、石碑が建っていました。
記念撮影しました。
意味深な形やシンボルが、たくさんあります。
「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られているそうです。
私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。
あるキッカケで知ったのです。
ネットで調べると、こういう説明が出てきます。
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある、観音菩薩の住まう浄土のことをいい、「華厳経」には、インドの南端にあると、説かれているそうです。
「観音信仰」の流布とともに、チベットや中国にも、「補陀落」は、想定されたようです。
チベットでは、ラサ北西に建つ、観音の化身、「ダライラマ」の宮殿を、「ポタラ(補陀落)宮」と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を、「補陀落」としたようです。
日本においては、南の海の果てに、「補陀落浄土」はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して、船出することを「補陀落渡海」と言ったそうです。
そして、この信仰を広げたのが、聖徳太子だったのです。
日本国内の補陀落の霊場としては、那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあったそうです。
記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち、半数以上が、この熊野那智で行われています。
熊野は、補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったようです。
聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは行われていたそうです。
チベットの「ポタラ宮殿」とも関係してたのですね。
そういえば、チベットも絶対平和主義の人たちが多く、そのために迫害されていますね。
ここも、日本の「天照派」と同じルーツだと思います。
「ポタラ宮殿」の地下は、地底王国の「シャンバラ」があると言われていますね。
この写真は、2018年に、この寺を訪れた時のものです。
「補陀落山寺」の本堂の中には、当時の様子を描いた絵もありました。
これもネットで調べると、こういう説明が出てきます。
那智の浜からは、25人の観音の信者が、補陀落を目指して船出したと伝えられています。
補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が刻まれています。
補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に行われたそうです。
渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で、読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだとも伝わっています。
渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に乗りこんだそうです。
説明は、さらに続きます。
渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には外から釘が、打ちつけられたそうです。
渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。
渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。
船のしつらえや渡海の方法などは、時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身、を南海にて観音に捧げる、捨身行だったのでした。
こう書かれています。
これが、一般的な認識です。
渡海僧が乗りこんだ船を復元したものが、境内にある建物のなかに展示されています。
これらの写真も、2018年の写真です。
奇妙な形をした小さな船です。
船の上には屋形が、作られています。
その屋形の前後左右を、4つの鳥居が囲んでいます。
人が一人だけ入ることができる、テントのような小屋があり、ここに僧侶が一人だけ入り、外からは釘が打たれ、中から出られないようにしていたそうです。
もちろん、現在のようなスクリューなどはなく、櫂も帆もなかったそうです。
だから、一度、海に出たら、クラゲのように、ただ漂うだけだったのです。
さて、ここからが、いよいよ本番です!
「補陀落渡海」は、このように、昔も現在も、狂信的でカルトっぽい儀式だったと、世間一般では思われています。
しかし、よく考えてください。
こういう、「即身成仏」の行為をやる意味は、何なのでしょうか?
ましては、何のために、わざわざ、海の彼方に行って、死ぬ必要があったのでしょうか?
ただ死ぬだけのために、これをやっていたとしたら、ただの馬鹿だと思います。
勘の良い方は、もうわかりましたね。
そうです。
「西日本」から「東日本」への脱出が、真の目的だったのです!
「空と海の彼方の極楽浄土へ行くために、舟に乗って、太平洋の彼方に行き、そのまま、沈没して、海の藻屑となり、即身成仏する」
というのは、「神武派」たちのグループの目を、ごまかすための偽りの儀式だったのです!
本当のことは、隠されていました。
実際には、こうだったようです。
途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から、突き放したようです。
「よ~し! 行ってこ~い!」
こう叫んだかどうかは、わかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。
すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。
そして、うまく、「黒潮」の乗れば、それは、大きな河のような流れで、「東日本」まで、運んでくれたのです。
ちなみに、黒潮の最大流速は、最大で4ノット(約7.4km/h)にもなり、軽くジョギングしているくらいのスピードなので、1週間以内では、確実に、「東日本」にある、どこかの浜に漂着したと思います。
そして、当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏にいろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前にその場所に着いていた人々が、打たれていた釘を外し、中からその僧侶を助けたのだと思います。
そして、その背後で、この秘密の脱出劇を計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。
黒潮です。
「西日本」 ⇒ 「東日本」
これを繋ぐメインストリートが、海だったというのは驚きですね。
しかも、大きな船ではなく、「小舟」だったというのも、ビックリです。
私たちは、歴史においては、必ず、「民族大移動」という大人数でのイメージがありますが、それは大陸の話です。
聖書には、そう書かれていますが、日本では、全く状況が違い、秘密裏に一人づつ、長い年月をかけての移動だったようです。
その期間、聖徳太子の時代から、江戸時代にかけて、なんと、1000年間くらい続いていたそうです!
これだけの長い年月をかけて、少しづつ、「天照派」の僧侶、つまり、本当の天皇家の一族を東日本に逃がし、そこで、おそらく、現地の女性と結婚して、子孫を広げていくという活動を、していたのだと思います。
目的は、「平和」と「愛」の遺伝子を、未来の日本に残すためです。
ここからは、再び今回の旅の写真です。
補陀落寺の隣には、「熊野三所大神社」という神社もあります。
元々は、同じ敷地内にあり、同じ僧侶たちが管理していたそうです。
拝殿の前でも、記念撮影しました。
拝殿の奥に、「♡(ハート)」の形をした切り株があったのが、印象的でした。
建物の下敷きになっている部分には、明らかに、「黒潮」を表現していると思われる石がありました。
この神社の本当の御神体は、これらの石たちだと思います。
この鳥居の辺りで、「補陀落渡海」の儀式は行われていたようです。
昔は、この鳥居までが海岸線で、ここが波打ち際だったようです。
記念撮影です。
鳥居の横にある案内板です。
「浜の宮王子社跡」と書かれていますね。
ある時期、99番目で最後の「王子神社」だったそうです。
この日は、この寺と神社の近くにある浜辺にも行きました。
「補陀落渡海」に乗って、東日本を目指した僧侶たちのことを、想像すると、なんともいえない気持ちになりました。
一方で、東日本にある、房総半島の痕跡です。
2018年の春に、「補陀落渡海」の僧侶たちが、「西日本」から、「小舟」で辿り着いた場所に、行ってきました。
ここには、
「玉依姫という名前の神様が、陸に上がってきた場所」
という伝説が残っています。
場所は、千葉県の「九十九里浜」です。
もうわかりましたね。
「九十九人の王子のグループが辿り着いた浜」
こういう意味だったのです!
さらに、この「九十九里」という漢字を分解すると、
「九」+「十」+「九」+「十」+「口(くに)」+「土」
となり、意味は、
「三十八の国土」
という意味になります。
着く場所が、どうして港ではなく、ただのビーチだったのでしょうか?
砂浜だからいいのです。
砂浜だと、大きな船は接岸できません。
沖に錨を下ろして、小舟で来ることになります。
砂浜という地形は、小舟じゃないと上陸できないのです。
大きな船が接岸できる港だったら、すぐに追っ手に見つかってしまいます。
このプロジェクトは、秘密裏の脱出劇だったことを、忘れないでくださいね。
昔、ここで、「天照派」の僧侶が、「小舟」から仲間によって救助されて、上陸したと思ったら、大感動でした。
「浜鳥居」という名前だそうです。
これは、熊野の「浜の宮王子社跡」から名付けたと思います。
「補陀落渡海」によって、「九十九里浜」に上陸した後、辿り着いた僧侶たちは、このルートを歩いたようです。
「浜鳥居」→「神洗神社」→「神埼神社」→「玉前神社」
大まかな地図です。
房総半島においては、「玉前神社」のあたりに、一旦、落ち着いたグループもいたようです。
あるグループは、ここを定住の地に決めたようです。
拝殿で参拝しました。
黒色は、珍しいと思います。
いろいろ考えたら、この色は、漆黒の闇、つまり、「宇宙」を表現していると思います。
そう思いながら、拝殿の屋根のあたりを見て、
「うわ~~!!」
と、大声で叫んでしまいました。
「宇宙の源」から、ツインレイである、「イザナギ」と「イザナミ」の魂が、最初は、「繭」のような形から、二つに分かれて、それから、二人の男女になる様子が描かれています。
大感動でした~!
やはり、ここは、「イザナギ」と「イザナミ」の子孫たちの拠点だったのです。
また、房総半島の南端、館山市には、「那古寺」というお寺があるのですが、ここの山号が、「補陀落山」なのです。
明らかに、和歌山県の「補陀落山寺」と関係ありますね。
2018年の春には、ここにも行きました。
ここでも、たくさんの痕跡を見つけて、感動しました。
このように、特に、「東日本」の海岸沿いに、「補陀落渡海」を思わせる名前の寺や神社が、たくさんあるのです。
次回に続きます。
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