天皇シークレットツアー 2 三十八
前回の続きです。
古代の日本は、ある期間、二つのグループが存在していたそうです。
ハッキリとした名前が、ついていたわけではありませんが、ここでは、わかりやすいように、「神武派」と「天照派」という名前で呼びますね。
前回の話の「リンゴ」と「ミカン」の分け方では、こうなります。
〇「神武派」=「リンゴ」=「弥生」=「日の丸」=「北朝」
〇「天照派」=「ミカン」={縄文」=「菊家紋」=「南朝」
「神武派」は、今から50万年前に地球では、中近東を拠点に、「アヌンナキ」という宇宙人の一族が活躍していましたが、そこから流れてきた大陸のグループです。
日本では、神武天皇が、そのグループのリーダーだったようです。
「天照派」は、もっと太古の時代に、すでに宇宙の根源からダイレクトに、日本にやってきてたグループです。
それは、720万年前の出来事だったそうです。
このグループのほうが、古くから地球にいたのです。
イザナギとイザナミが、このグループのリーダーです。
太古の日本においては、「イザナギ」と「イザナミ」が、最初に日本の国造りをしたそうですが、これは、絶対平和主義のグループで、本当に「愛の存在」だったそうです。
それに対して、後から、日本の土地にやってきた、「神武天皇」は、大陸からやってきた渡来人や帰化人のグループと組んだ、「権力志向の存在」だったそうです。
そして、かなりの長期間にわたって、「神武派」が「天照派」を弾圧したり圧政下におくということを、続けていたそうです。
「イザナギ」と「イザナミ」は、38人の子供を生んだそうです。
この子孫が、日本の古代史において、とても重要な流れなのです。
38人は、その後に、たくさんの子孫を増やしたそうです。
そして、滋賀県米原市で、しばらく、このグループは暮らしていたそうです。
だから、世界で最初の「都」は、現在の「米原市」みたいです。
ここを、「三八子(みやこ)」と呼んだそうです。
「三十八人の子供たちの町」
こういう意味だったようです。
余談ですが、現在でも、その痕跡が残っています。
「米原」から、北東にラインをのばすと、その延長線上に、岩手県宮古市があります。
そして、同様に、南西にのばすと、沖縄県の宮古島があります。
「宮古市」ー「三八子(米原)」-「宮古島」
こうなるのです!
私は、これに、「みやこライン」と名付けました。
まだ、人工衛星などない時代に、このラインは、つくられたと思います。
だとしたら、人間業ではないですね。
まさに、神業です。
この一族の直系である、長男と長女の子孫は、「大丹生・皇」の称号を名乗り、後に、「天皇家」になったそうです。
ある時期に、この子孫の一人が、「初代天照(アマテル)」を名乗ったそうです。
この頃から、「天皇」という称号が、生まれたそうです。
念のために書いておきますが、この天皇は、古事記などに登場する、「アマテラス」とは別人で意味も違うそうです。
「古事記」は、後の天皇などが、かなり歴史を湾曲して書いているそうです。
さて、「初代天照(アマテル)」の時代から、何百万年も経った後、新しい時代が始まったそうです。
その時代は、それまでの平和な時代ではなく、動乱の時代になったようです。
きっかけは、大和地方に、「神武天皇」がやってきたのが、始まりだったようです。
この天皇のグループは、権力志向だったようです。
「天照派」のグループは、「愛」のグループだったと思います。
そして後から、日本の歴史に登場した「神武天皇」は、「力」の崇拝者でもあったようです。
私は、どのグループがいいとか、悪いとかの判断は、やらないほうがいいというスタンスです。
国政というのは、世の中の状況によって、穏やかに統治したほうがいいこともあれば、多少は荒っぽく、人々を弾圧しなくては、治まらない時もあるからです。
この二つのグループを、さらに、わかりやすく表現すると、
〇「天照派」=「理想主義」
〇「神武派」=「現実主義」
こうなると思います。
現在の日本でも、これは、引き継がれていて、目まぐしく変化する国際情勢の中で、常に、「理想」と「現実」の問題で、政治は論争されますね。
具体的には、「平和憲法」と「自衛隊」の問題なのです。
これも、いろいろな見方ができるので、
「どの意見が正しいか?」
というのは、とても難しい問題なのです。
私が面白いと思ったのは、前述したように、「天照派」の人々は、古事記の「天照大神」とは、直接は関係ないのが、やはり、性格が似ているのです。
つまり、このグループは、
「絶対に戦わない」
という共通の姿勢があるのです。
古事記には、「アマテラス」が、弟の「スサノヲ」の乱暴ぶりに、腹を立てる場面がありますが、その怒り方が、ユニークなのです。
ご存知のように、天岩戸に隠れるのです。
要するに、「引きこもった」ということです。
本来の日本人の怒りの表現は、これなのです。
たとえば、江戸時代なども、「鎖国」をやっていますが、あれは、当時の日本人たちが、西洋人たちが、「大航海時代」などと言って、世界中を植民地化して、残酷で酷い行いをしているのを見て、怒ったのだと思います。
「あんな野蛮な人たちとは、お付き合いできません」
こう思って、国内に引きこもったのが、あの時代だったのだと思います。
おそらく、現代の日本でも、「ニート」や「引きこもり」をやっている若者は、世の中に対して、怒っているのだと思います。
生粋の日本人の怒りの表現は、「引きこもる」のです。
それに対して、「神武派」は怒ると、相手を殺したり、殴ったり、怒鳴ったり、場合によっては、戦争をしたりします。
怒りの表現の仕方が、ストレートで、わかりやすいのです。
この視点から見ると、現在の日本人にも、「天照派」と「神武派」の二つのタイプの日本人がいるような気がします。
現代の日本の社会では、やはり、「天皇家」は、「天照派」だと思います。
そして、「内閣」に代表されるような政治家たちは、「神武派」が多いような気がします。
私は完全に、「天照派」ですね。
あなたは、どのタイプですか?(笑)
生粋の日本人というのは、本来争ったり、喧嘩したりすることが、とても苦手な民族みたいです。
とても愛に満ちていて、平和が好きな民族なのです。
何かに腹を立てて、怒っても、相手に仕返ししたり、怒鳴ったりせずに、静かにその場を立ち去ったり、無言になったり無視するという態度をとります。
本当に頭にきた時も、天岩戸に隠れるように、「引きこもる」という行動で抗議するのです。
何かに対する怒りが、頂点に達しても、頭にきた相手を、殺すのではなく、その怒りを、自分に向けたりして、自殺という抗議行動を選択する人も多いのです。
現代の日本において、多くの人々、特に感性が豊かで、敏感な若者たちが、引きこもったり、ニートになったり、登校拒否や出社拒否、それから、すぐに職場を辞めて、転職を繰り返したりするのも、静かな怒りの表現なのだと思います。
社会に対して、無言の抗議をしているのです。
ストレートな感情表現に慣れている大人たちは、これらの行動が、わかりません。
「どうして、学校に来なくなったんだろう?」
「どうして、入社したばかりの会社を、すぐに辞めたりするんだろう?」
「どうして、いつまでも親元にいて、社会に出て働かないんだろう?」
こう思っていると思います。
これが、彼らの怒りの表現の仕方なのです。
口に出して反論したり、抗議したりしないのです。
「静かな怒り」
なのです。
これは、政府に対してもそうです。
あまりにも酷い政治をしても、生粋の日本人の多くは、大規模なデモなどの行動はしません。
ただ単に、
「投票に行かない」
という無言の抗議行動をします。
引きこもってしましまった人々が、世の中に出てくるようにするには、怒ってもダメだし、なだめたり、おだててもダメです。
「天照大神」を、天岩戸から出そうと思ったら、皆で、裸踊りをするくらいの宴会を、やらなくてはいけないのです。
つまり、
「ワクワクすること」
これが、世の中に、たくさん出てきた時に、引きこもっている人たちも、隙間から、外の世界を覗きこみ、岩戸から出たくなるのです。
「世の中は面白い! ワクワクすることで溢れている!」
私の旅行記は、一貫して、そう主張しているのです。
だから、天岩戸の中に、引きこもっているような人たちに、特に読んでいただきたいのです。
もう一度まとめますね。
「神武派」に代表される武闘派、それから、「天照派」に代表される穏健派、古代の日本には、この二つのグループが存在していたようです。
「神武派」は、「天武天皇」などのように、名前に、「武」が入っている天皇が、多かったみたいです。
文字通り、イケイケの武闘派が多かったようです。
このグループは、穏健派の「天照派」を、徹底的に弾圧していたようです。
古代の日本は、最終的には、
「奈良」=「天照派」=「南朝」
「京都」=「神武派」=「北朝」
こうなったそうです。
そして、奈良を拠点にした、「天照派」が、リーダーとして選んだ天皇が、「後醍醐天皇」だったそうです。
「北朝」と「南朝」には、いろいろな複雑な流れがありますが、その根底には、この二つのグループがあったということがわかって、納得しました。
「天照派」の子孫たちは、その後、日本史の中で、途中から入ってきた外来の宗教である、「仏教」を隠れ蓑に活用したようです。
たくさんの人々が、僧侶になり、お寺に身を隠していたようです。
穏健派の「天照派」の人々は、武闘派の「神武派」から、いろいろな圧力によって、精神的にも肉体的にも、とても不自由な思いをしていたと思います。
そして、西日本を中心に、囲い込まれているような形になり、逃げ場のない状況で閉塞状態になっていたと思います。
陸地は、おそらく、関所みたいな場所があり、要所には見張りがいたと思います。
当時の東日本は、とても不便な場所だったし、大きな船を建造して、外国に逃げようと思っても、それもできなかったと思います。
天武天皇は特に酷い弾圧をして、「天照派」の人々には、
「土地をもってはいけない。職業についてもいけない。他の部族と結婚してもいけない」
こういう法律をつくり、乞食の立場に追いやったそうです。
それで仕方なく、お寺のお坊さんになって、そこで質素な生活を始めた人々も多かったようです。
「天照派」の人たちは、そうやって虐げられた状況の中、心の優しい、何人かの権力者たちに助けられながら、少しづつ移動していったようです。
私が調べたところ、関西地方に住んでいた、「天照派」の人々は、出雲地方にも拠点を移したグループが、一部いたようです。
その痕跡が、現在でも「出雲大社」に残っています。
広い境内の中に、こういう細長い祠が二つあることに、気が付いた人も多いと思います。
これは、東に「十九社」あり、西にも「十九社」あるそうです。
ハイ!
「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供たちですね。
「天照派」であり、日本の本当の天皇家ですね。
2018年に、「出雲大社」に行ったのですが、これを知って驚きました。
見てください。
「十九社」の御祭神が、「八百万萬神」と書かれています。
いわゆる、「八百万の神々」ですね。
つまり、旧暦10月に、毎年、全国の「八百万の神々」が出雲の国に集まり、他の土地では、神様が留守になるので神無月で、出雲では神在月になるのですが、ここに集まる神々である、「八百万の神々」の正体は、「イザナギ」と「イザナミ」の子供たち、38人のことだったということです。
このグループは、その後も、少しづつ日本中に散らばり、歴史の表舞台には出ないで、裏から地味な活動を続けていたようです。
もう少し、この38人の神様、つまり、「八百万の神々」のグループについて、説明しておきますね。
基本的には、このグループは、権力欲や金銭欲などが全くなく、宇宙から地球にやってきた、
「植物」-「動物」-「人間」
この三者が、バランスよく回転しているだけで、地球という惑星は、うまく循環するという考え方です。
だから、この世界観で動いているのです。
それが、多くの神社にあるシンボル、「三つ巴」なのです。
古代の日本列島の中で、「天照派」のグループは、常に、「神武派」の追っ手から、ひたすら逃げていたそうです。
関西地方からは、奈良県の吉野、それから、和歌山県の熊野の奥地に逃げたようです。
「熊野」の土地を旅していて感じたのは、「王子」という名前がつく神社が、たくさんあるということです。
一般的には、「王子」とは、「熊野権現の御子神」だと、考えられているようです。
昔から、不思議だったのですが、そもそも、どうして、「熊野」というのでしょうか?
この土地に、たくさんの「熊」が生息している「野山」というわけでも、なさそうです。
調べると、元々は、「熊」という文字は、「畏」だったそうです。
「畏れ多い」
という表現で使いますね。
つまり、「熊野」という土地は、「畏の」という意味で、
「畏れ多い神々の住む聖地」
という意味だそうです。
「王子神社」というのは、大阪あたりから始まり、和歌山県の熊野まで、北から南に、広く分布しています。
それらは、総称して、「熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)」と呼ばれていたそうです。
一般的には、「九十九」というのは実際の数ではなく、「数が多い」という意味で使われることが多いですね。
しかし、実際、最盛期には、99ヵ所くらいの「王子」と呼ばれる土地があったそうです。
ここからは、私の想像です。
おそらく、このエリアには、「八百万の神々」、つまり、38人の子孫の末裔がいたのだと思います。
そして、99人の王子、つまり、天皇家のリーダーが、99人住んでいたのだと思います。
99のグループに、分かれていたのだと思います。
よくよく考えてみてば面白い話です。
歴史上、いつの時代も、どこの国でも、「王様」は一人だけです。
そして、「王子様」も、数人くらいしかいなくて、「王様」の椅子を狙って、王子様同士で、喧嘩したり、戦争することになると、だいだい決まっています。
また、「王子」という単語も、日本的ではありません。
中国などの大陸での称号ですね。
おそらく、「天照派」の人々は、絶対平和主義だったから、そもそも争わなかったのだと思います。
そして、「王座を狙う」などという椅子取りゲームにも、興味がなかったのだと思います。
99人も王子様がいたのならば、それから先の時代に、少なくする方向ではなかったと思います。
もっと多くしようと思っていたと思います。
最終的には、99人どころか、999人、9999人、99999人…
こんなかんじで、日本全国、全ての人々が、「王子」の身分になるような国家を目指したのではないでしょうか?
つまり、現代の「国民主権」や「民主主義」を、この時代に思い描いていたのではないでしょうか?
そして、そんな彼らが夢を見て、最初に、実現させたのが、天下泰平だった、「江戸時代」だったのではないでしょうか?
現代は、いつでも美味しいものが、食べれれて、皆が、飛行機や新幹線で、いろいろなところに、旅行に行けますね。
まさに、「国民皆王子」の時代ですね。
この時代に、未来の「民主主義」を思い描いた、99人の王子たちのことをイメージしていたら、目から涙が出てきました。
絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、ある時期から、関西を中心にした西日本では、閉塞状態になっていたようです。
陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。
そもそも、仮に東日本に行っても、当時は、大半の土地は、荒れた僻地だったので、行ってもそこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。
それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。
「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」
ある時、こう決意したのだと思います。
しかし、海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。
そんなとき、一人の救世主が現れます。
「聖徳太子」
この人物が助けたのです。
聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが始まったのです。
救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。
私は、「聖徳太子=キリスト説」を主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。
聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。
彼らにとっては、「西日本」は、まるで監獄にいるように、不自由な土地でした。
そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。
よいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!
熊野地方には、日本史における、最重要な寺があります。
「補陀落山寺」という小さなお寺です。
「世界遺産」に指定されています。
日本史において、最重要な場所には、だいたい、「天皇」の写真が飾られていることが多いです。
特に、「皇太子」の時代に、そういう場所を訪問することが多いみたいです。
この寺にも、写真がありました。
「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られているそうです。
私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。
補陀落渡海のうち、半数以上が、熊野那智で行われています。
聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは行われていたそうです。
結論だけ、簡単に言いますね。
この小舟に、お坊さんを一人だけ乗せて、入水自殺に見せかけて、東日本に亡命させていた。
これが、「補陀落渡海」の真相だったのです。
奇妙な形をした小さな船です。
途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から突き放したようです。
「よ~し! 行ってこ~い!」
こう叫んだかどうかはわかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。
すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。
そして、うまく、「黒潮」の乗れば、それは大きな河のような流れで、「東日本」まで、運んでくれたのです。
そして当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏にいろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前にその場所に着いていた人々が、その僧侶を助けたのだと思います。
その背後で、この秘密の脱出劇を計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。
黒潮です。
「西日本」 ⇒ 「東日本」
これを繋ぐメインストリートが、海だったというのは驚きですね。
しかも、大きな船ではなく、「小舟」だったというのもビックリです。
私たちは、歴史においては、「民族大移動」というのは、大人数でのイメージがありますが、それは大陸の話です。
聖書には、そう書かれていますが、日本では全く状況が違い、秘密裏に一人づつ、長い年月をかけての移動だったようです。
その期間、聖徳太子の時代から、江戸時代にかけて、なんと、1000年間くらい続いていたそうです!
これだけの長い年月をかけて、少しづつ、「天照派」の僧侶、つまり、本当の天皇家の一族を東日本に逃がし、そこで、おそらく現地の女性と結婚して、子孫を広げていくという活動をしていたのだと思います。
目的は、「平和」と「愛」の遺伝子を、未来の日本に残すためです。
東日本にある、房総半島の痕跡です。
「補陀落渡海」の僧侶たちが、「西日本」から、「小舟」で辿り着いた場所に、行ってきました。
場所は、千葉県の「九十九里浜」です。
これも、もうわかりましたね。
「九十九人の王子のグループが辿り着いた浜」
こういう意味だったのです!
さらに、この「九十九里」という漢字を分解すると、
「九」+「十」+「九」+「十」+「口(くに)」+「土」
となり、意味は、
「三十八の国土」
という意味になります。
着く場所が、どうして港ではなく、ただのビーチだったのでしょうか?
砂浜だからいいのです。
砂浜だと、大きな船は接岸できません。
沖に錨を下ろして、小舟で来ることになります。
砂浜という地形は、小舟じゃないと上陸できないのです。
大きな船が接岸できる港だったら、すぐに追っ手に見つかってしまいます。
昔、ここで、「天照派」の僧侶が、「小舟」から仲間によって救助されて、上陸したと思ったら、大感動でした。
「浜鳥居」という名前だそうです。
「補陀落渡海」によって、「九十九里浜」に上陸した後、辿り着いた僧侶たちは、このルートを歩いたようです。
「浜鳥居」→「神洗神社」→「神埼神社」→「玉前神社」
大まかな地図です。
房総半島においては、「玉前神社」のあたりに、一旦、落ち着いたグループもいたようです。
このように、絶対平和主義の「天照派」の子孫たちが、西日本から、「小舟」で、東日本に移住してきて、つくりあげたのが、「江戸」という町なのです。
だから、江戸時代が、260年くらい平和だったのです。
江戸時代が、なぜあれほど長い期間、大きな戦争がなかったかというと、この町の人々の遺伝子が、絶対平和主義の「天照派」だったからだというのが、真相だと思います。
そして、徳川家康を始めとする徳川幕府は、これを知っていたということです。
「徳川家康」は、「天照派」のリーダーだったようです。
「徳」は、「十九(とく)」だと思います。
つまり、19組で38人のグループである、「八百万の神々」の子孫だということです。
「川」は、横にすると、「三」で、「三つ巴」の意味だと思います。
「19」や「38」という数字は、このグループを象徴するナンバーみたいです。
このように、「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方にはたくさん残っています。
最終的には、和歌山県の熊野から渡海したグループは、栃木県の日光のあたりで落ち着いたようです。
それから、「埼玉県」を通って、北関方面の「群馬県」と「栃木県」に向かったのが、大きな流れだったようです。
京都の丹後半島から始まる、「天照派」の足跡ですが、和歌山県の「熊野」から、小舟で、「東日本」を目指したルートを、シンプルに書くと、赤線のようなルートになります。
私は、「補陀落渡海」を調べていて、
「九十九里浜のあたりから、日光まで歩いて移動した時は、大変な道のりだったに違いない」
と思っていたのですが、実際には、小舟で流れに逆らいながらも、上流へと向かうことができたようです。
もしかしたら、追い風の時には、とても楽に行けたかもしれません。
現在の千葉県銚子市のあたりから、栃木県日光市まで、古代においては、「香取浦」という大きな湾と無数の川があり、なんと、太平洋から、「日光」のあたりまでは、「鬼怒川」を使って、舟で一気に行くことができたようです。
「熊野」 ⇒ 「日光」
この間は、小舟で行けたということです。
1000年前の想像図だそうです。
「補陀落渡海」の僧たちが後に、「補陀落寺」を建てた場所は、この川沿いが多いですね。
こうやって、地形で推測すると、かなり正確な歴史が把握できますね。
2018年に、補陀落渡海について、本格的な調査を始めたのですが、宇都宮市内をまわっていたら、この神社の名前が目に飛び込んできました。
「二荒山神社」という名前の神社です。
「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と発音するそうです。
「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」=「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」
こうなるのです。
この神社は、和歌山県の「補陀洛山寺」と、完全に繋がっているのです。
つまり、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「補陀洛山寺」の僧侶たちは、小舟で、「黒潮ロード」を渡って来て、関東の地へ上陸した後、栃木県宇都宮市にある、「二荒山神社」にも、辿り着いたということです。
栃木県日光市にも、同じ名前の神社があります。
「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」という神社です。
こうなります。
「熊野 補陀洛山寺」=「宇都宮 二荒山神社」=「日光 二荒山神社」
和歌山県の「補陀落山寺」、それから、栃木県の二つの「二荒山神社」が見事に繋がりましたね。
「天照派」のグループが、拠点に選んだ土地が、ここだったのです。
メインのグループは、ここで居住を始めたと思います。
そして、どうやら、福島県にも、このグループは、どこかの時代で、栃木県の日光から辿りつき、ここも、終の棲家に選んだようなのです。
だから、福島という土地も、「天照派」の子孫が、たくさんいるのだと思います。
「愛と平和」の遺伝子をもつ人々ですね。
ちなみに、「天照派」は、「日食」をシンボルマークにしています。
「いったん、闇の世界に入り、それから、光の世界に行く」
こういう世界観なのです。
だから、
「いったん死んでから、もしくは、死んだふりをしてから、再度生き返る」
というのが、彼らの生きざまのパターンなのです。
そして、彼らの世界観は、「星信仰」でもあり、「妙見信仰」とも繋がるようです。
だから、「妙見信仰」がある土地は、彼らの拠点だった所なのです。
このように、38人の子供たち、つまり、「八百万の神々」の痕跡は、日本中に、たくさん残っているのですが、このグループは、とても地味でシャイで、謙虚なので、あまり表舞台には出てきません。だから、あまり大きな観光地に、デカデカと、その名前が掲げられていることも、めったにありません。
ひたすら、裏方に徹するグループなのです。
私は、このグループの魅力に魅せられてら、2018年に、日本中を調査して、まわりました。
これは、福井県福井市にある町です。
「三十八社中」と書かれていますね。
奈良県にも、いくつか、痕跡があります。
奈良県御所市北窪にある、「高天彦神社」の境内社で、「三十八社」と書かれています。
こちらも、奈良県にある、「三十八柱神社」です。
滋賀県大津市にある、「石山寺」にも、「三十八社」があります。
面白い記事です。
昭和3年11月10日の「昭和天皇の即位の礼」の時、身分の高い方達は、京都御所まで車で送迎されたようですが、その車のナンバーが、「乙 三八」だったようです。
これは、「昭和天皇」が、「天照派」だったという状況証拠になりますね。
「乙」は、蛇の意味もありますね。
他にも、日本で大ヒットするドラマや映画などにも、このナンバーが、暗号のように隠されています。
わかりやすい例をあげると、「3年B組金八先生」です。
「3B」というクラスも、「38」の意味だと思いますが、「3」と「八」で、「38」のナンバーが入っていますね。
さらに、この黒板の日付も、3月18日(金)になっていますね。(笑)
そういえば、金八先生の尊敬する人物も、天照派のリーダーだった、坂本龍馬でしたね。
北辰一刀流の免許皆伝であり、剣の達人なのに、一度も剣を使わなかった、愛と平和の使者でしたね。
学校の近くにも、補陀落渡海の舞台でもあった、荒川の土手がありました。
内容も、最初から最後まで、「愛による教育」が、メインテーマでしたね。️
このように、日本の歴史において、大切な時期には、暗号のように、「38」のナンバーが、チラチラと顔をのぞかせるのです。
そしてこれは、極めつけの話です。
大阪セミナーの時に、参加者の方から教えていただきました。
令和の時代の新天皇は、少年時代には、御所で友達を集めて、草野球をしていたそうです。
当時は百貨店で、子供用の各球団のユニホームが販売されていて、新天皇は、読売ジャイアンツの末次利光選手のファンで、「背番号38番」のユニフォームを着ていたそうです。
末次選手です。
でも、それは、表向きの理由だと思います。
本当の理由は、
「自分が、38人の子供たち、八百万の神々のグループである」
という隠れたメッセージだったと思います。
大感動ですね~!
あくまでも、私の個人的な感覚によるものですが、新天皇である、「徳仁親王」は、「エンキ」の魂のような気がします。
そして、弟さんの「秋篠宮文仁親王」は、「エンリル」のように感じます。
「清子内親王」であった、現在の「黒田清子」さんは、「ニンフルサグ」だと思います。
私は、この新天皇の妹さんである黒田清子さんが、「天照派」のリーダーだと思っています。
何度も書いているように、このグループは、なるべく表に出ないようにして、生涯を終えるのです。
だとしたら、皇族から民間人になって、地味に暮らしているこの方こそ、まさに、「八百万の神々」の生き方をされている方なのです。
あっ、そうそう、大事なことを書き忘れるところでした。
この黒田清子さんには、天皇のナンバーが、しっかりと名前に刻まれています。
そうです。
愛称が、「サーヤ」でしたね。
「サーヤ(38)」です。
どうですか?
面白いでしょう。
これが、天皇家の秘密なのです。
このファミリーのシンボルは、「38」という数字なのです。
ウォーミングアップを兼ねた、おさらいが終わったので、いよいよ次回から、本格的な旅行記に突入します。
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