精神世界の鉄人

UFOやチャネリング、霊、輪廻、超古代文明などの不思議な話題から、ビジネス、経済、政治、歴史、文化などの社会問題、そして、恋愛や結婚、ダイエット、旅などの現実的な話題まで、幅広く、日々感じたことを、書き綴ってみますね。

熊野シークレットツアー 5 小舟

前回の続きです。

 

このように、絶対平和主義の「天照派」の子孫たちが、西日本から、「小舟」で、東日本に移住してきて、つくりあげたのが、「江戸」という町なのです。
だから、「江戸時代」が、260年くらい平和だったのです。

江戸時代に、「お伊勢参り」というのが流行りましたね。
「一生に一度は伊勢詣」
昔は、こう言われたらしいですね。
他にも、「熊野詣」もありましたね。
「伊勢へ七度熊野へ三度」
とも言われていたそうです。

実は、あれの本当の意味は、大いなる里帰りだったのです。

何度か書いていますが、日本人の始祖である、「イザナギ」と「イザナミ」が、最初に結婚式を挙げたのが、「伊雑宮」だっったのです。
そして、熊野から、「補陀落渡海」で、東日本へ亡命してきたのです。
江戸時代の人々は、DNAの中に、その記憶があり、その記憶が騒いだのかもしれません。

「本当のお父さんとお母さんの故郷に帰りたい! 自分の魂のルーツに帰りたい!」
この気持ちが、「お伊勢参り」や「熊野詣」だったのかもしれません。


伊勢から始まった、生粋の日本人である、「天照派」の人々が、熊野の那智から、小舟で関東に流れ着いて、「江戸時代」をつくりあげ、そして、天下泰平になった頃、故郷の伊勢に、また帰りたくなった。
こう想像したら、またまた、じわじわと、感動の波が湧き上がってきました。

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繰り返しましますが、「江戸時代」が、なぜあれほど長い期間、大きな戦争がなかったかというと、この町の人々の遺伝子が、絶対平和主義の「天照派」だったからだというのが、真相だと思います。

そして、徳川家康を始めとする徳川幕府は、これを知っていたということです。

徳川家康は、「天照派」のリーダーだったようです。
壮大なスケールの歴史物語が、ここで生まれていたのですね。


関東に、「小舟」で流れ着いた、「天照派」が拠点にしていたと思われる神社や寺は、山ほどあります。
数が多すぎるので、数か所だけ例をあげます。


東京都品川区にある、「鹿嶋神社」です。

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ここの境内に、大きな石碑があります。
ハイ!
「小舟」ですね。

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そして、その横には、「ミカン」の木が植えてありました。
「橘」ですね。

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そういえば、聖徳太子の生まれた場所も、「橘寺」でしたね。
実は、補陀落信仰の中には、
「理想郷である、補陀落山には、橘の木がある」
という信仰があるのです。

ここは、間違いなく、「補陀落信仰」の聖地なのです。
「天照派」のグループが、
「ここが、自分たちの探し求めていた、理想郷だ!」
と言っているのです。


そして、最初に大きな拠点にしたと思われる土地も、東京にあります。
ここから、江戸時代が、始まったと思われる所です。


再度、復習しておきますね。

西日本から、小舟に乗って、少しづつ長期間にわたって、東日本の地に移住してきたパイオニアたち、彼らのグループは、「イザナギ」と「イザナミ」を始祖とする子孫たちでした。
彼らは、最初の38人の子供たちの子孫でもあるのですが、長男の名前が、「別雷尊」。
これは、生まれた時に、身体が、「丹生」という宇宙エネルギーで、輝いていて、まるで、身体に雷が落ちた時のように、発光していたから、この名前だったそうです。
現代風の表現では、「凄いオーラの持ち主」というかんじですね。


「天照派」のグループは、関東地方において、いくつの地点から上陸したようですが、ある時期に、東京のある場所で、一堂に会する機会があったと思われます。
なんと、その場所は、「浅草」だったようです!
有名な「雷門」です。

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「昔は、このあたりに、よく雷がよく落ちたから、雷門というのかな?」
私は長年、そう思っていたのですが、違うのです。
38人の子供の長男だった、「別雷尊」の名前から、これは名付けられたのだと思います。
「別雷尊のグループの拠点だった場所」
それが、「雷門」の場所なのだと思います。
「天照派」のグループの本部が、おそらく、ここにあったのだと思います。

 

ここの参道を歩いていて、一番驚いたのが、これです。
最初の「雷門」の次の門です。

なっ、なんと!
デ~ンと大きく、「小舟町」と書かれているではないですか~!!!

人目もはばからず、
「うわーー!!」
と大声を上げてしました!
今までに、これの意味に気が付いた人が、どれくらいいたんだろう?

ジャ~~ン!!

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見てください!
「小舟に乗って、関東にやって来た人々が住んでいた町」
こう言っているのです。

実は、日本国内において、隠している秘密などないのです。
歴史の秘密は、どうどうと、目の前に提示しているのです。
問題は、
「それの意味を、正しく解釈できるかどうか?」
だったのです。

この提灯の真下に、金色の紋章のようなものがありました。

「小舟町」という文字が刻まれています。
これを見た時、またまた、大感動でした~!

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ここが、補陀落信仰の最終地、「観音菩薩」のいる聖地だったのです。

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浅草の近くに、「日本橋小舟町」という名前の街もあります。
ここは、現在は、東京都中央区の地名になっていて、昔は、日本橋区にあたる日本橋地域内だったそうです。
地名に、「日本」がついている所は、それほどたくさんはありません。

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この近くには、日本銀行もあります。

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江戸時代において、日銀の敷地内には、「銀座」ではなく、「金座」という土地があったのですが、ここで、金を造っていたそうです。

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「お金を造る」という一番大切な仕事をやっていたのが、どうやら、小舟で江戸に辿りり着いた人々の子孫たちだったようなのです。

 

さらに、聖徳太子が忍者を使って、隠れて連絡をとりあっていた頃から、ここに、「手紙」の文化が生まれたようです。

日本の郵便の発祥の地も、このあたりです。

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前述したように、日銀を始めとした、銀行の発祥の地でもあります。

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まさに、ここが、「日本」の発祥だったのです。
「邪馬台国」や「大和」や「倭」ではなく、「日本」という共同体が形作られたのが、ここだったのかもしれません。


「小舟町」=「日本」
もしかしたら、こう言ってもいいくらい、「補陀落渡海」で東日本に向かった僧たち、つまり、「天照派」の人々であり、愛と平和の一族、そして、「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供の子孫である本当の天皇家、彼らが、「日本」の礎を固めたのだと思います。


「古代において、日本という国は、小舟から始まった!」
この驚愕の史実は、これから、少しづつ広がっていくかもしれませんね。

 

 

このように、「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方にはたくさん残っています。
最終的には、和歌山県の熊野から渡海したグループは、栃木県の日光のあたりで落ち着いたようです。

東日本においては、「天照派」が、「黒潮ロード」に乗って、小舟で漂着した場所が、
「千葉県」&「茨城県」&「神奈川県」&「東京都」&「静岡県」
主に、この5ヵ所だったようです。

それから、「埼玉県」を通って、北関方面の「群馬県」と「栃木県」に向かったのが、大きな流れだったようです。
京都の「丹後」から始まり、関西を経由して、和歌山県の「熊野」から、小舟で、「東日本」を目指した「天照派」のグループの主なルートを、シンプルに書くと、赤線のようなルートになります。

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さらに、特筆すべきことがあります。


私は、「補陀落渡海」を調べていて、
「九十九里浜のあたりから、日光まで歩いて移動した時は、大変な道のりだったに違いない」
と思っていたのですが、実際には、小舟で流れに逆らいながらも、上流へと向かうことができたようです。
もしかしたら、追い風の時には、とても楽に行けたかもしれません。

現在の千葉県銚子市のあたりから、栃木県日光市まで、古代においては、「香取浦」という大きな湾と無数の川があり、なんと、太平洋から、「日光」のあたりまでは、「鬼怒川」を使って、舟で一気に行くことができたようです。
「熊野」 ⇒ 「日光」
この間は、小舟で行けたということです。
1000年前の想像図だそうです。

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「補陀落渡海」の僧たちが後に、「補陀落寺」を建てた場所は、この川沿いが多いですね。
こうやって、地形で推測すると、かなり正確な歴史が把握できますね。



2018年に、補陀落渡海について、本格的な調査を始めたのですが、宇都宮市内をまわっていたら、この神社の名前が、目に飛び込んできました。
「二荒山神社」という名前の神社です。

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「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と発音するそうです。

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もうわかりましたね。


「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」=「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」
こうなるのです。
この神社は、和歌山県の「補陀洛山寺」と、完全に繋がっているのです。
つまり、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「補陀洛山寺」の僧侶たちは、小舟で、「黒潮ロード」を渡って来て、関東の地へ上陸した後、栃木県宇都宮市にある、「二荒山神社」にも、辿り着いたということです。


この神社の拝殿の近くの灯篭の中に、不思議なシンボルがありました。
なんと、神紋が、「菊の三つ巴」です!

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私は、いろいろ調べた結果、この神紋が、日本の古代史において、最重要なシンボルだと思っています。
この神紋は、「三つ巴」と「菊花紋」が、合わさっていますね。
「日本という国家の中枢や奥底には、天照派のグループがいますよ」
こういう意味だと思います。
凄いシンボルですね~~!!


それから、しばらくして、別の日に、栃木県日光市にも行きました。
ここにも、同じ名前の神社があります。
「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」
という神社です。

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有名な「日光東照宮」の隣にある神社です。
ここにも、「三つ巴」がありました。
ここも、和歌山県熊野のお寺と、密接に繋がっているのです。
だから、こうなります。
「熊野 補陀洛山寺」=「宇都宮 二荒山神社」=「日光 二荒山神社」

一説によると、「日光」という名前は、弘法大師空海が、この地を訪れた際に、「二荒」を、「にこう」と読み、「日光」の字を当て、この地の名前にしたとも言われています。
「補陀洛」→「二荒」→「日光」
こうなったそうです。
和歌山県の「補陀落山寺」、それから、栃木県の二つの「二荒山神社」が見事に繋がりましたね。

やはり、「天照派」のグループが、終の棲家に選んだ土地が、ここだったのです。
ここで、メインのグループは、ここで居住を始めたと思います。


そして、大切なことは、「日光」という太陽の光は、古代において、いったん、ここで隠れるのですが、「日食」が、暗くなったあと、再び輝きだすように、そして、「天の岩戸開き」の天照大神が、籠ったあとに、再び顔を出すように、日本という国は、「不死鳥」というのが、シンボルマークでもあり、特性なのです。
「外国から、どんなに叩かれても、戦争で負けても、経済が悪くなっても、必ず復活する」
これが、「日本」という国の底力なのです。

そして、それを裏で支えているのが、裏の古代史に登場する「天照派」の人々なのです。
今年から、また、「丹の光」を放つ日本」が、再び浮上してくると思います。
楽しみですね。

 

 

日光にもありますが、静岡県にも、「久能山東照宮」という東照宮があります。
ここにも、2018年の春に行きました。

山の頂上からの眺めも、最高でした。

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「久能山東照宮」を、ネットでも調べてみました。

すると、こういう記述がありました。

 

〇「久能山東照宮」について

久能山の歴史

遥か遠い昔、この山は観音菩薩の霊場とされ、観音信仰の聖地でした。
久能山の歴史、「久能寺縁起」によると、推古天皇の御代(7世紀頃)、秦氏の久能忠仁が、初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し、「補陀落山久能寺」と称したことに始まります。
久能山の名称も、ここから起こりました。

 

なんと、ここは、元々の名前は、「補陀落山久能寺」だったというのです!

7世紀頃だから、「聖徳太子」の時代です。
しかも、創建者は、「秦氏」です。

見事に、繋がりましたね~!

驚きました。
なんでも調べてみるものですね。


他も、こういう説明も見つけました。

 

〇「久能山東照宮と日光東照宮の違い」

「日光東照宮」は」、徳川秀忠や家光が陰陽道などにのっとって、江戸の守り神として、神格化した徳川家康の遺体を、安置させるために作られたもの。
「久能山東照宮」は、徳川家康が静岡で亡くなり、遺言により作られたもの。
つまり、日光は、親孝行で作られたもの、久能山は、家康自身の希望場所である。

 

なるほど、わかりやすいですね。

 

入口の門の前で、記念撮影しました。

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この看板を見て、ビックリしました!

わざと、草書体で、くずして書いていますね。

パンフレットでは、

「東照大権現」

という説明ですが、違うと思います。

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「天照大権現」

こう書かれているのだと思います。

もしかしたら、昔は、「草書体」というのは、このように、「暗号」のような役割をしていたのかもしれませんね。

 

「徳川家康」の手形がありました。

意外と、小柄だったのですね。
身長、155センチ、体重、60キロだったのですね。

私は、「38歳」という年齢が、やたらと気になりました。(笑)

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拝殿で参拝しました。

煌びやかですね。

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こういう所には、密かに目立たない所に、本当にメッセージ性のある模様や絵などが、刻まれれてり、描かれていることが多いです。

 
驚いたのが、この彫刻です。
同行した友人と、驚嘆しました。

見てください!

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わかりましたか?
これを、わかりやすくした絵を入手しました。

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一般向けの説明文には、こう書かれています。

 

「家康公からの伝言」

この絵は、「司馬温公の甕割り」の絵です。

古代中国の有名な政治家、司馬温公が、7歳の時のある日、友人と遊んでいましたが、友人が誤って、水を一杯張った水瓶に落ちてしまいます。
「このままでは、友人が溺れ死んでしまう」と思った温公さんは、機転を利かし、水瓶を割ることによって、友人を助けることができたというお話です。

家康公からの伝言は、「命を大切にせよ」です。


どうですか?
これを読んで違和感を感じませんか?

「江戸時代」という凄い時代を創り上げ、日本とう国家の基礎も創り上げた、超偉大な人物の眠る聖地、さらに、そこの一番大切な拝殿の真ん中に、こんな子供でもわかるような逸話の絵なんて、描かないと思いませんか?


もうわかりましたね。

そうです。

これは、「補陀落渡海」の絵です。

おそらく、熊野から静岡の浜辺に打ち上げられた小舟から、一人の僧を、二人の仲間が救出している場面だと思えば、しっくりくると思います。

中国風の服装や髪形は、カムフラージュです。
私は、この髪形は、「二本角」、つまり、「鬼=大丹生=天皇家」を表現していると思います。


小舟の上で、鉄の箱のように釘打ちされた板を、仲間がこじ開け、浸水していた海水と一緒に、ドバ~!という音とともに、補陀落渡海の僧が、箱から出てきている場面だと思います。

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もう大感動でした。

同行した友人と一緒に、何度も、何度も、

「凄いね~! 凄いね~!」

と言い合って、この発見を喜び合いました。


「補陀落渡海」

やはり、これが、日本史における最重要な出来事だったのです。

 


あっ、そうそう、そういえば説明するのを、すっかり忘れていました。

「どうして、家康は、天照派の人々を助けていたのか?」

という素朴な疑問です。
この家紋に、全ての意味が隠されています。

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思い出してください、
旅行記の最初の頃に、書きましたね。

武闘派である「神武派」、それから、穏健派である「天照派」、この両者が仲直りした記念に、最初にやった祭りが、京都の「葵祭」でしたね。

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調べてみると、昔、その祭りを執り行い、両者の仲をとりもったグループがいたようです。
それが、いわゆる、「加茂族」です。
その子孫が、どうやら、「徳川家康」だったようなのです。

 


ネットでの説明です。

 

徳川氏は京都・葵祭で有名な、加茂神社の氏子だから、加茂神社の神紋、葵を家紋として用いました。
賀茂神社の裏の神山には、葵が沢山生えており、この草を神殿の飾りや神の降臨(葵祭)に使用し、それを加茂神社の神紋としました。
神社の神紋は「二葉葵」で、それを徳川氏は、神社のシンボル、「巴」と掛けて「葵巴」としました。
その「葵巴」こそが、一般にいう「三葉葵」である、徳川家の家紋となりました。

 

「久能東照宮」の境内には、「双葉葵」が置かれていました。
よく見ると、葉っぱが、「♡(ハート)」の形をしていますね。

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そして、これは、ダジャレで、オヤジギャグになりますが、

「家康」=「イエス」

こういう話もあります。

「家康」 → 「いえやす」 → 「いぇーやす」 → 「いえす」

「徳川家康」=「イエス・キリスト」

つまり、同じ魂グループだったということです。
おそらく、「聖徳太子」も、そうだと思います。

「イエス・キリスト」 → 「聖徳太子」 → 「徳川家康」

こうやって、同じ魂が、この三者の間を繰り返し、転生していたのかもしれません。

だから、この三者とも、「神人」なのです。

 

 

葛飾北斎が描いたと言われていて、新しい紙幣のデザインでも採用されるという絵です。

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私は、これに描かれている小舟も、昔、静岡県の浜に、熊野から辿り着いた、補陀落渡海の小舟の意味も含んでいると思っています。

 

 

 

さて、ここからは、オマケの話題です。

 

熊野の補陀落山寺に行った時、お寺の壁には、皇太子殿下、「令和」という新時代においては、新天皇になる、浩宮殿下が、この寺を訪問させていいる姿の写真が、飾られてした。

殿下の独身時代だそうです。

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最近、気がついたことです。
徳川家康の「徳」の文字は、元々の意味は、「十九(とく)」の意味だったかもしれません。

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それから、徳川の「川」は、「三」で、「三つ巴」の意味かもしれません。

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やはり、徳川家は、「天照派」だったのです。

 


「浩宮殿下」、つまり、新天皇の「徳仁親王」の名前にも、「徳」が入っていますね。

この名前も、分解すると、

「徳」+「二」+「人」+「親」+「王」

つまり、

「十九組の子供たち、それから、二人の親(イザナギ&イザナミ)の子孫の王様」

の意味になります。
「天照派」の王様ということです。

 

そういえば、大阪府堺市にある、日本最大の前方後円墳、「仁徳天皇陵(大山古墳)」も同じく、「仁徳」の文字が入っていますね。
何か関係あるのかな?

 

「令和」の時代の新天皇は、「補陀落渡海」などの裏の古代史に精通しているということです。
いやー、面白い時代になりそうですね〜

 

 

 

さらに、もう一つオマケです。

私の大好きな地上絵の話題です。

 

まず、これは、関西地方の普通の地図です。

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次に、この土地を、むき出しの状態にした地形図です。

ジャーン!

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船に乗っている人の絵が、見えますか?

日本の着物ではなく、中国などの大陸の服装をして、何かを祈っているような姿に見えますね。

 

つまり、この絵の意味は、

「大陸からやってきた渡来人や帰化人は、日本の関西地方に住むことを、最初から、日本の神々が決めていたのですよ」

こう言っているのだと思います。

 

「熊野」のあたりが、地上絵においては、「海」に相当する部分だと思います。

だとしたら、「補陀落渡海」の歴史も、ここから始まることは、最初から決まっていたのかもしれません。

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これは、福岡県うきは市で発見された、「珍敷塚古墳」の壁画に描かれている絵です。

この中の「舟を漕ぐ人の絵」は、「関西の地上絵」に似ています。

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この壁画は、古代の「関西地方の地図」だったのかもしれません。

上の地上絵と見比べてみてください。
そっくりですね。

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関西の土地は、「エジプト文明」とも、深い関係があったと思われます。

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舟の先が、同じですね。

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ある時代には、「エジプト文明」と「日本文明」は、頻繁に交流していたのだと思います。

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いかがでしたか?
「補陀落渡海」、面白いでしょう!


もう一度、シンプルにまとめますね。

聖徳太子の時代の後、日本は、少しづつ、なんと1000年以上の長い年月をかけて、「補陀落渡海」によって、西日本から東日本に拠点を移していったのです。
そして、その全ては、今回のメインテーマである、「熊野」から始まっていたということです。

この史実の痕跡は、日本中にあります。
ぜひ、ご自分の土地にある、神社やお寺に、何かの痕跡を見つけたら、そこに行って、短い時間でいいから、手を合わせて、祈ってみてください。
何に祈るのかというと、「補陀落渡海」を実行した人々の愛と勇気に対してです。
そして、この旅行記の内容も、少しだけ思い出していただけると、嬉しいです。

 

 

次回から、いよいよ、「熊野」の奥の院である、本当の秘密の扉が開きます。

 

ギッ、ギギギギギ…

 

 

 

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