熊野シークレットツアー 6 那智の秘密
続きの話です。
今回の旅では、初めて「熊野那智大社」にも行きました。
なぜか、熊野では、今までにタイミングが合わずに、那智大社には行けなかったのですが、今回、めでたく参拝できました。
鳥居と階段です。
オレンジ色ですね。
「補陀落」というユートピアにあるという「橘」という柑橘類のフルーツを表現しているのかもしれません。
拝殿の前でも、記念撮影しました。
興味深いシンボルや文字などが、たくさんありますね。
私の解釈では、「八咫烏」の文字は、象形文字で、「八」は「直角三角形」で、「咫」は「コンパス」だと思います。
「フリーメーソン」の意味だと思います。
ここでも、記念撮影しました。
この神社の隣には、「青岸渡寺」という名前の寺もあります。
「ふだらく」の文字がありました。
有名な滝と三重塔です。
「補陀落渡海」のことを知っていると、境内を歩いていて、とても楽しいです。
ここから、車でちょっと走った所に、「飛瀧神社」もあります。
滝の近くまで来ました。
凄い迫力です。
近くから湧き出ている御神水も美味しかったです。
さて、ここからが、いよいよ、熊野の隠された秘密の話です。
今回、熊野を訪れたメインの目的は、この人物が気になったからでした。
歴史マニアの間では、わりと知られている人物ですが、一般的には、ほとんど知られていないと思います。
ドイツ人で、「カール・ハウスホーファー」という名前です。
ドイツの代表的な地政学者であり、ミュンヘン大学の教授でもあったようです。
諸説ありますが、シンプルに経歴をまとめると、こうなります。
この人物は、1908年(明治41年)から1910年(明治43年)まで、駐日ドイツ大使館付武官として、日本で勤務してたそうです。
そして、1911年から1913年に博士論文で、「日本の軍事力、世界における地位、将来に関わる考察」をまとめたようです。
その後、1919年にハウスホーファーは、教え子として、ルドルフ・ヘスと知り合い、1921年には、アドルフ・ヒトラーと出会ったそうです。
左側が、ハウスホーファー、右側が、ルドルフ・ヘスです。
ルドルフ・ヘスは後に、ヒトラーの腹心としてナチ党の副総統を務め、ナチス・ドイツの中枢にいました。
この二人が、どうやら、ヒトラーと出会い、「ナチス」をつくったようなのです。
つまり、実質的には、この二人が、「ナチス・ドイツ」を結成したようなものなのです。
これが、「ナチス」のシンボルです。
明らかに、「八咫烏」ですね。
そして、この「鍵十字」のシンボルです。
以前から、日本の寺を表現する、「卍」に似ているとは、思っていましたが、どうやら、この二者には、関係が大ありだったようです。
この形そのものは、大昔から、世界中にありますが、この「ナチス」のシンボルは、日本の「天照派」と関係していたようです。
今年の4月上旬に、江戸東京博物館に行った時の写真です。
昔、浅草の浅草寺にあった、鬼瓦が置かれていました。
そこには、立派な卍の形が、刻印されていました。
昔、浅草寺には、この「卍」があったそうです。
この瓦は、ここにあったようです。
赤丸です。
最近の陰謀論で、よく語られる、「QAnon」という単語も、読み方によっては、「観音」にも読めますね。
これにも、この観音信仰のグループが、関わっている可能性もあります。
背後には、「天照派」がいるかもしれないということです。
さらには、幕末の英雄、ジョン万次郎の名前の「まんじ」も、「卍」の意味も含んでいるのかもしれません。
いろいろな仮説や噂はありますが、どうやら、日本の「緑龍会」という組織も、ドイツの「ナチス」を陰で動かしていたようですね。
頭山満や蒋介石が写っている、「緑龍会」の写真です。
頭山満と出口王仁三郎が、一緒に写っている写真もあります。
ある情報によると、ハウスホーファーは、日本に滞在していた間に、熊野の那智大社を訪れていたそうです。
そして、どうやら、地球における真実の歴史を知ったようです。
那智のお坊さんたちが裏の歴史を、ハウスホーファーに全て教えたようなのです。
その内容は、
「この地球上には、善人と悪人がいる。日本人の大半は、善人だが、一方で、カスピ海を中心に活動を広げていった、ユダヤ人の中には、とても質の悪い悪人がいる。彼らが、これ以上、調子に乗って、悪さを続けると、地球が破壊されるほどの戦争が起こる可能性があるから、ちょっと懲らしめてくれないだろうか?」
こうだったとも、噂されています。
そして、それが後に、「アウシュビッツ強制収容所」に繋がったのだそうです。
いろいろな調査から、この出来事は、かなり大袈裟に記録が残されているようですが、だからといって、全く無かったわけではないのです。
なんと、悪名高い「アウシュビッツ」は、陰では、日本がやらせていたというのです。
目的は、
「地球を、悪の枢軸である一部の悪いユダヤ人から救うため」
だったというのです。
これは、明らかな状況証拠も残っていて、ハウスホーファーは、後に、日本の政府から、外国人で初めての特別な勲章まで、与えられているそうです。
「よくやってくれました!」
と、日本からお礼を言われたということです。
まとめると、要するに、こういうことみたいです。
第二次世界大戦は、ナチスのヒトラーが起こした戦争ですが、そのヒトラーを、陰で動かしていた国があったのです。
それが、日本です。
そして、その組織は、日本の「八咫烏」であり、「緑龍会」という組織も関与していたようなのです。
さらに、それらの組織の具体的な拠点は、「熊野那智大社」だったのです。
日本の「那智」の下部組織を、ドイツに創設したのが、「ナチス」だったということです。
具体的には、愛と平和にグループである、「天照派」が、愛と平和のために、いろいろ動いていたのが、第二次世界大戦だったということです。
いやー、歴史の闇、深すぎますね。
話が長くなるので、詳しいことは、割愛させていただきます。
詳しいことは、私のセミナー、「悪の根源」で、お伝えしています。
1996年の話です。
アメリカから、アームストロングさんという方がやってきて、あるセミナーが開催されました。
アームストロングさんは、当時、すでに70歳後半でした。
元CIAの高官で、「UFO」や「宇宙人」、「秘密結社」、「超古代文明」、「軍事問題」などに、大変詳しい人物で、目から鱗が落ちるような貴重な情報を、たくさん聞くことができました。
アームストロングさんは、セミナーが始まってすぐに、開口一番、
「朝鮮戦争の時に、アメリカの軍人として、最前線で戦い、大勢の敵兵を殺した体験がある」
と言っていました。
「私は、神に背く行為を戦場でたくさんやりました。現在、私は、主にアジアで、CIA時代に入手した真実の情報を公開する活動をしていますが、これは、私の罪滅ぼしの気持ちからやっています。こうやって再び、日本を含むアジアで、少しでも世界平和の実現のための仕事をさせていだだけることを、神に感謝します」
こう話した後、アームストロングさんは、目から涙を流していました。
そのセミナーでは、たくさんの話を聴いたのですが、私が、特に心に残ったのが、「アドルフ・ヒトラー」についての話でした。
ヒトラーについては、実際の人物像が、歪められて認識されているようです。
「ヒトラーは小男で、身長にコンプレックスがあった」
という説が、信じられていたりしますが、彼の身長は、175~178センチだったという説が、事実に近いそうです。
理由は、ヒトラーのボディーガードが、2メートルくらいの身長の大男ばかりだったので、写真には、小さく写っているように見えたそうです。
最近では、世界一の大富豪、「ロスチャイルド財閥」の当主の隠し子だったという説も、あるようですね。
父親が、世界一の大金持ちだったから、あれほどの活動ができたようです。
他にも、現在のドイツの首相は、ヒトラーの娘だという噂もあるようですね。
「ナチス」についても、イメージが、かなり誤解されて広まっているようです。
悪いことも、もちろん、たくさんやっていますが、同じくらい良いことも、たくさんやっています。
ヒトラーについて、一度徹底的に調べたことがあります。
1945年に、戦後のドイツで、「ニュールンベルグ裁判」が、行われていますが、興味深いのは、その時に、連合国側が、「ナチス」の幹部達の「知能(IQ)テスト」を、行っているのです。
知能(IQ)テストでは、100が平均値、70以下が悪く、130以上が、天才だと言われています。
この130以上は、全体の人口の2%だという統計データもあります。
「ナチス」の幹部達の、知能テストの結果ですが、平均が、145だったそうです。
さらに、ヒトラーの側近達にいたっては、平均、175だったそうです。
広報や宣伝を担当した人物が一番凄くて、その当時、世界最高の198を記録したそうです。
天才の集団だったそうです。
連合国側の心理学者が、その198を記録した人物に、
「アドルフ・ヒトラーは、頭がよかったですか?」
と質問をしたら、すかさず、その人物は、
「ヒトラー総統は、私などが足元にもおよばない、頭脳の持ち主でした」
こう証言したそうです。
ヒトラーが、人間離れした頭脳の持ち主だったことは事実のようです。
アームストロングさんの話によると、第二次世界大戦の時に、ヒトラーは、自決して死んだことになっていますが、死んだのは、やはり、影武者で、本当のヒトラーは、すぐに、潜水艦(Uボート)で逃げ出し、オーストラリア海域で3ヶ月潜伏した後、南米のアルゼンチンに入国し、1991年まで、そこで生活していたそうです。
最後は、老衰で亡くなったと言っていました。
実際に、アルゼンチンで会ったとも言っていました。
少ない監視員に、ガードされながら、わりと自由に生活していたそうです。
最近では、この話は、陰謀でもなんでもなく、アルゼンチンでは、「ヒトラー総統の足跡をたどる」というツアーも、存在しているそうです。
「このレストランのこの席で、ヒトラー総統は、よく食事していました」
というように、ガイドが、ツアー客に説明したりしているそうです。
アームストロングさんは、
「実は、アドルフ・ヒトラーこそ、悪魔の最高位、ルシファーが憑依した人物だったのです」
こうも言っていました。
その事実は、その当時、アメリカやロシア、フランス、イタリア、日本、イギリスなど、どの国のトップも、全員知っていたそうです。
それで、ヒトラーの行動を、黙認していたそうです。
ヒトラー(ルシファー)の行動の根本的な目的は、
「この時期に、人間たちに、戦争という行為の愚かさを、骨の髄まで、教えておく必要がある。ここで、教えておかないと、将来、核兵器を大量に保持したときに、地球消滅の危機が来る。だから、私は、戦争、差別、虐殺などを行う」
ということだったそうです。
「将来の地球の危機を回避するための戦争が、第二次世界大戦だった」
というのです。
「ドイツが、降伏した時点で、ヒトラーの肉体から、ルシファーが抜けて、元の普通の人間に戻ったため、連合国側は、アルゼンチンで、生活しているヒトラーには、それ以上の干渉はしなかったのです」
とも言っていました。
「第二次世界大戦の戦争目的は、地球を救うためだっだ」
ということです。
たしかに、あの時代の後に、あれだけの大規模な戦争が、もし起こっていたら、もっと酷い惨状になっていたのかもしれません。
1980年代の各国の核ミサイルの保有数を考えると、1980年代に、第二次世界大戦が、遅れて始まっていたら、確実に地球は消滅していましたね。
1940年代だったから、あの程度の被害で済んでいたのかもしれません。
アームストロングさん曰く、
「あれでも、その後に起こる可能性を考えたら、まだ、ましだった」
と言うのです。
そう考えると、ヒトラー(ルシファー)の主張も、一理ありそうですね。
一説によると、第二次世界大戦の戦争被害者は、8500万人だったとも言われています。
当時の世界の人口の2.5%以上が、被害者になったそうです。
私は、原則として、どんな戦争も、よくない行為だと思っていますが、
「当時の8500万人を殺すことによって、現在の70億人の命が救われた」
と、言われたら、
「う~ん」
と、考えこんでしまいます。
この話が事実だとして、これに対する明確な意見を述べることは、難しいと思います。
私も、どう捉えたらいいのか、いまだにわかりません。
人間って、そういうものなんですかね?
本当に、第二次世界大戦は、必要だったのかな?
理屈で話しても、やはり、わからなかったのかな?
そこまで、愚かな存在なのかな?
これだけの痛い思いをしないと、戦争の酷さが、理解できなかったんですかね?
いろいろな疑問が出てきます。
歴史において、戦争では、こういう判断するのが難しい場面が、頻繁にでてきます。
たとえば、
「目の前の1万人を殺さなければ、その後に、10万人が死ぬことになる」
という場面で、その決断に迫られることが、王様や将軍などに、頻繁に、突きつけられたようです。
たとえば、古代の中国などでは、「三国志」の時代にも、そういうことは、よくあったそうです。
その時に、曹操という人物は、躊躇なく、目の前の1万人を殺せる人物だったそうです。
一方で、劉備という人物は、たとえ、後に、10万人死ぬことがわかっていても、目の前の1万人を殺さなかったそうです。
どちらの人物が、いい将軍なのかは、わかりません。
善悪というのは、簡単に決められないのです。
ヒトラーは、おそらく、曹操のようなタイプだったのかもしれません。
ただし、私は、個人的には、劉備のような人物が好きです。
「どうして、原爆投下が、日本だったのか?」
というのも、知りたいですね。
日本だった理由は、ハッキリとは、わかりませんが、一つだけ、わかることは、
「もしも、日本以外の国だったら、憎しみの連鎖が、その後も続いていたのではないか?」
ということです。
報復につぐ、報復合戦になり、もしかしたら、本当に地球が破壊されるほどの大破壊が起こったかもしれません。
あれほどのことをされても、報復しないという高い霊性をもった国民だから、その地球規模の大役を、任されたのかもしれません。
だとしたら、私たち日本人の使命は、これからの「世界平和」において、とても重要だということです。
地球に一番大きな影響を与えた宇宙人一族は、「アヌンナキ (Anunnaki)」のファミリーでしたね。
その中で、「エンリル(Enlil)」と「エンキ(Enki)」の話も、何度も紹介しました。
そして、聖書の中において、「エデンの園」で、アダムとイブに、リンゴに象徴される、「知恵の実」を、食べさせた存在が、上半身が人間で、下半身がヘビの「エンキ」だったという説も紹介しました。
そのエンキが、ルシファーなのです。
つまり、「エンキ=ルシファー」ですね。
面白い話があります。
フランスのパリ大学は、第二次世界大戦の時に、ナチスの占領下にはいり、ヒトラーに、建物を改装されたりしたそうです。
特に、パリ大学の分校は、ヒトラーが、いろいろな紋章を門などに刻んだそうですが、この刻んだ紋章の中には、シュメールの神々が刻まれているのだそうですが、なんと、「エンリル」と「エンキ」のグループの中で、「エンリル」のグループが意図的に除外されているのだそうです。
ヒトラーは、パリ大学に、「エンキ」のグループの神々しか刻んでいないということです。
これは、ヒトラーが、「エンキ」のグループであり、「ルシファー」だったという状況証拠の一つになりますね。
そこで、ふっと思いだしたのは、ヒトラーの妻だった、エヴァという女性です。
エンキ(ルシファー)が、エデンの園で、最初に誘惑して、リングを食べさせたのは、アダムとイブの二人のうちのイブのほうでしたね。
「Eve」は、「イブ」とも読むし、「エバ」とも読みます。
ヒトラーの妻の名前が、
「エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウン(Eva Anna Paula Braun)」
このファーストネームの「Eva」は、「Eve」ですね。
さらに、ミドルネームだと思われる名前に、
「Anna」
が入っています。
これは、「Anunnaki」のファミリーを、意味する名前なのかもしれませんね。
もしかしたら、ヒトラーに憑依した、「エンキ=ルシファー」が、太古の昔、エデンの園にいた、「エバ」に、そっくりな女性を見つけ、その女性に、「エヴァ」という名前をつけて、妻にしたのかもしれません。
もしくは、このエヴァという妻は、「エデンの園」のエバの子孫だったのかもしれません。
これらの話は、どこまでが真実なのかは、わかりません。
でも一度、こういう視点からも、あの大戦を考えてみてもいいと思います。
歴史なんて、ほとんどの真実は、隠されたり消されたりしてるのです。
「第二次世界大戦の真相」は、これからも、続々と出てくると思います。
私も、それらの真相を知るたびに、驚愕していますが、大切なことは、どんなにネガティブなことでも、それに対しては、もう過去のこのなので、恨みや復讐心はもたないようにすることです。
そして、それ以上に大切なことは、それらの真実を知った後は、二度と未来に、同じ出来事が起きないようにすることだと思います。
さて、旅行記に戻ります。
那智大社の近くの山には、「卍」のシンボルもあります。
地元の人たちには、有名みたいですね。
今回の旅では、この「卍」のマークも見に行きました。
着きました。
最高の景色でした。
プラスチック製です。
かなりデカイです。
記念撮影しました。
ここは、「阿弥陀寺」という名前の寺です。
場所は、那智大社から、車で30分くらいの所です。
空からの眺めです。
この寺の門も、オレンジ色でした。
貫禄のある看板ですね。
本堂です。
この寺からは、とても大きな「愛」を感じました。
「戦争は悪いことだ。平和はいいことだ」
こういう価値観は、もちろん大切です。
人間だから、当然、こういう当たり前の気持ちは、忘れてはいけません。
しかし、一方で、神々の視点というのは、もっともっと、広く大きなものかもしれません。
そして、人生が行き詰まったり、この世の中が、あまりにも嫌になった時には、そういう視点で一度、世界を見てみると、ちょっと楽になることもあります。
大切なことは、その視点をもったからといって、世界が瞬時に劇的に変わることはないということです。
戦争が、一日で無くなることなどないのです。
あくまでも、「ちょっとだけ楽になる」ということです。
でも、この「ちょっと」が、この世の中において、何よりも大切なものなかもしれません。
那智の旅、一生忘れないほどの素敵な時間でした。
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熊野シークレットツアー 4 補陀落渡海
このグループは、関西地方から、他にも、奈良県の吉野から、和歌山県の熊野の奥地に逃げていたようです。
「熊野」は、今までに、4回ほど訪れていますが、この土地を旅していて感じたのは、「王子」という名前がつく神社が、たくさんあるということです。
一般的には、「王子」とは、「熊野権現の御子神」だと、考えられているようです。
昔から、不思議だったのですが、そもそも、どうして、「熊野」というのでしょうか?
この土地に、たくさんの「熊」が生息している「野山」というわけでも、なさそうです。
調べると、元々は、「熊」という文字は、「畏」だったそうです。
「畏れ多い」
という表現で使いますね。
つまり、「熊野」という土地は、「畏の」という意味で、
「畏れ多い神々の住む聖地」
という意味だそうです。
「王子神社」というのは、大阪あたりから始まり、和歌山県の熊野まで、北から南に、広く分布しています。
それらは、総称して、「熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)」と呼ばれていたそうです。
一般的には、「九十九」というのは実際の数ではなく、「数が多い」という意味で使われることが多いですね。
しかし、、実際、最盛期には、99ヵ所くらいの「王子」と呼ばれる土地があったそうです。
ここからは、私の想像です。
おそらく、このエリアには、38人の子孫の末裔がいたのだと思います。
そして、99人の王子、つまり、天皇家のリーダーが、99人住んでいたのだと思います。
99のグループに、分かれていたのだと思います。
しかし、よくよく考えてみてば面白い話です。
歴史上、いつの時代も、どこの国でも、「王様」は一人だけです。
そして、「王子様」も、数人くらいしかいなくて、「王様」の椅子を狙って、王子様同士で、喧嘩したり、戦争することになると、だいだい決まっています。
また、「王子」という単語も、日本的ではありません。
中国などの大陸での称号ですね。
おそらく、「天照派」の人々は、絶対平和主義だったから、そもそも争わなかったのだと思います。
そして、「王座を狙う」などという椅子取りゲームにも、興味がなかったのだと思います。
99人も王子様がいたのならば、それから先の時代に、少なくする方向ではなかったと思います。
もっと多くしようと思っていたと思います。
最終的には、99人どころか、999人、9999人、99999人…
こんなかんじで、日本全国、全ての人々が、「王子」の身分になるような国家を目指したのではないでしょうか?
つまり、現代の「国民主権」や「民主主義」を、この時代に思い描いていたのではないでしょうか?
そして、そんな彼らが夢を見て、最初に、実現させたのが、天下泰平だった、「江戸時代」だったのではないでしょうか?
現代は、いつでも美味しいものが、食べれれて、皆が、飛行機や新幹線で、いろいろなところに、旅行に行けますね。
まさに、「国民皆王子」の時代ですね。
この時代に、未来の「民主主義」を思い描いた、99人の王子たちのことをイメージしていたら、目から涙が出てきました。
絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、ある時期から、関西を中心にした西日本では、閉塞状態になっていたようです。
陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。
そもそも、仮に東日本に行っても、当時は、大半の土地は、荒れた僻地だったので、行ってもそこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。
それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。
「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」
ある時、こう決意したのだと思います。
しかし、海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。
そんなとき、一人の救世主が現れます。
「聖徳太子」
この人物が助けたのです。
聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが始まったのです。
救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。
私は、「聖徳太子=キリスト説」を主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。
聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。
彼らにとっては、「西日本」は、まるで監獄にいるように、不自由な土地でした。
そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。
よいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!
熊野地方には、日本史における、最重要な寺があります。
「補陀落山寺」という小さなお寺です。
今回の旅では、ここも訪れました。
2回目の訪問でした。
寺に着いたのは、夕方でした。
なんと、「世界遺産」に指定されています。
ここにも、「八咫烏」がいました。
本堂です。
「補陀落渡海寺」と書かれています。
境内には、石碑が建っていました。
記念撮影しました。
意味深な形やシンボルが、たくさんあります。
「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られているそうです。
私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。
あるキッカケで知ったのです。
ネットで調べると、こういう説明が出てきます。
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある、観音菩薩の住まう浄土のことをいい、「華厳経」には、インドの南端にあると、説かれているそうです。
「観音信仰」の流布とともに、チベットや中国にも、「補陀落」は、想定されたようです。
チベットでは、ラサ北西に建つ、観音の化身、「ダライラマ」の宮殿を、「ポタラ(補陀落)宮」と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を、「補陀落」としたようです。
日本においては、南の海の果てに、「補陀落浄土」はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して、船出することを「補陀落渡海」と言ったそうです。
そして、この信仰を広げたのが、聖徳太子だったのです。
日本国内の補陀落の霊場としては、那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあったそうです。
記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち、半数以上が、この熊野那智で行われています。
熊野は、補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったようです。
聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは行われていたそうです。
チベットの「ポタラ宮殿」とも関係してたのですね。
そういえば、チベットも絶対平和主義の人たちが多く、そのために迫害されていますね。
ここも、日本の「天照派」と同じルーツだと思います。
「ポタラ宮殿」の地下は、地底王国の「シャンバラ」があると言われていますね。
この写真は、2018年に、この寺を訪れた時のものです。
「補陀落山寺」の本堂の中には、当時の様子を描いた絵もありました。
これもネットで調べると、こういう説明が出てきます。
那智の浜からは、25人の観音の信者が、補陀落を目指して船出したと伝えられています。
補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が刻まれています。
補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に行われたそうです。
渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で、読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだとも伝わっています。
渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に乗りこんだそうです。
説明は、さらに続きます。
渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には外から釘が、打ちつけられたそうです。
渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。
渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。
船のしつらえや渡海の方法などは、時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身、を南海にて観音に捧げる、捨身行だったのでした。
こう書かれています。
これが、一般的な認識です。
渡海僧が乗りこんだ船を復元したものが、境内にある建物のなかに展示されています。
これらの写真も、2018年の写真です。
奇妙な形をした小さな船です。
船の上には屋形が、作られています。
その屋形の前後左右を、4つの鳥居が囲んでいます。
人が一人だけ入ることができる、テントのような小屋があり、ここに僧侶が一人だけ入り、外からは釘が打たれ、中から出られないようにしていたそうです。
もちろん、現在のようなスクリューなどはなく、櫂も帆もなかったそうです。
だから、一度、海に出たら、クラゲのように、ただ漂うだけだったのです。
さて、ここからが、いよいよ本番です!
「補陀落渡海」は、このように、昔も現在も、狂信的でカルトっぽい儀式だったと、世間一般では思われています。
しかし、よく考えてください。
こういう、「即身成仏」の行為をやる意味は、何なのでしょうか?
ましては、何のために、わざわざ、海の彼方に行って、死ぬ必要があったのでしょうか?
ただ死ぬだけのために、これをやっていたとしたら、ただの馬鹿だと思います。
勘の良い方は、もうわかりましたね。
そうです。
「西日本」から「東日本」への脱出が、真の目的だったのです!
「空と海の彼方の極楽浄土へ行くために、舟に乗って、太平洋の彼方に行き、そのまま、沈没して、海の藻屑となり、即身成仏する」
というのは、「神武派」たちのグループの目を、ごまかすための偽りの儀式だったのです!
本当のことは、隠されていました。
実際には、こうだったようです。
途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から、突き放したようです。
「よ~し! 行ってこ~い!」
こう叫んだかどうかは、わかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。
すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。
そして、うまく、「黒潮」の乗れば、それは、大きな河のような流れで、「東日本」まで、運んでくれたのです。
ちなみに、黒潮の最大流速は、最大で4ノット(約7.4km/h)にもなり、軽くジョギングしているくらいのスピードなので、1週間以内では、確実に、「東日本」にある、どこかの浜に漂着したと思います。
そして、当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏にいろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前にその場所に着いていた人々が、打たれていた釘を外し、中からその僧侶を助けたのだと思います。
そして、その背後で、この秘密の脱出劇を計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。
黒潮です。
「西日本」 ⇒ 「東日本」
これを繋ぐメインストリートが、海だったというのは驚きですね。
しかも、大きな船ではなく、「小舟」だったというのも、ビックリです。
私たちは、歴史においては、必ず、「民族大移動」という大人数でのイメージがありますが、それは大陸の話です。
聖書には、そう書かれていますが、日本では、全く状況が違い、秘密裏に一人づつ、長い年月をかけての移動だったようです。
その期間、聖徳太子の時代から、江戸時代にかけて、なんと、1000年間くらい続いていたそうです!
これだけの長い年月をかけて、少しづつ、「天照派」の僧侶、つまり、本当の天皇家の一族を東日本に逃がし、そこで、おそらく、現地の女性と結婚して、子孫を広げていくという活動を、していたのだと思います。
目的は、「平和」と「愛」の遺伝子を、未来の日本に残すためです。
ここからは、再び今回の旅の写真です。
補陀落寺の隣には、「熊野三所大神社」という神社もあります。
元々は、同じ敷地内にあり、同じ僧侶たちが管理していたそうです。
拝殿の前でも、記念撮影しました。
拝殿の奥に、「♡(ハート)」の形をした切り株があったのが、印象的でした。
建物の下敷きになっている部分には、明らかに、「黒潮」を表現していると思われる石がありました。
この神社の本当の御神体は、これらの石たちだと思います。
この鳥居の辺りで、「補陀落渡海」の儀式は行われていたようです。
昔は、この鳥居までが海岸線で、ここが波打ち際だったようです。
記念撮影です。
鳥居の横にある案内板です。
「浜の宮王子社跡」と書かれていますね。
ある時期、99番目で最後の「王子神社」だったそうです。
この日は、この寺と神社の近くにある浜辺にも行きました。
「補陀落渡海」に乗って、東日本を目指した僧侶たちのことを、想像すると、なんともいえない気持ちになりました。
一方で、東日本にある、房総半島の痕跡です。
2018年の春に、「補陀落渡海」の僧侶たちが、「西日本」から、「小舟」で辿り着いた場所に、行ってきました。
ここには、
「玉依姫という名前の神様が、陸に上がってきた場所」
という伝説が残っています。
場所は、千葉県の「九十九里浜」です。
もうわかりましたね。
「九十九人の王子のグループが辿り着いた浜」
こういう意味だったのです!
さらに、この「九十九里」という漢字を分解すると、
「九」+「十」+「九」+「十」+「口(くに)」+「土」
となり、意味は、
「三十八の国土」
という意味になります。
着く場所が、どうして港ではなく、ただのビーチだったのでしょうか?
砂浜だからいいのです。
砂浜だと、大きな船は接岸できません。
沖に錨を下ろして、小舟で来ることになります。
砂浜という地形は、小舟じゃないと上陸できないのです。
大きな船が接岸できる港だったら、すぐに追っ手に見つかってしまいます。
このプロジェクトは、秘密裏の脱出劇だったことを、忘れないでくださいね。
昔、ここで、「天照派」の僧侶が、「小舟」から仲間によって救助されて、上陸したと思ったら、大感動でした。
「浜鳥居」という名前だそうです。
これは、熊野の「浜の宮王子社跡」から名付けたと思います。
「補陀落渡海」によって、「九十九里浜」に上陸した後、辿り着いた僧侶たちは、このルートを歩いたようです。
「浜鳥居」→「神洗神社」→「神埼神社」→「玉前神社」
大まかな地図です。
房総半島においては、「玉前神社」のあたりに、一旦、落ち着いたグループもいたようです。
あるグループは、ここを定住の地に決めたようです。
拝殿で参拝しました。
黒色は、珍しいと思います。
いろいろ考えたら、この色は、漆黒の闇、つまり、「宇宙」を表現していると思います。
そう思いながら、拝殿の屋根のあたりを見て、
「うわ~~!!」
と、大声で叫んでしまいました。
「宇宙の源」から、ツインレイである、「イザナギ」と「イザナミ」の魂が、最初は、「繭」のような形から、二つに分かれて、それから、二人の男女になる様子が描かれています。
大感動でした~!
やはり、ここは、「イザナギ」と「イザナミ」の子孫たちの拠点だったのです。
また、房総半島の南端、館山市には、「那古寺」というお寺があるのですが、ここの山号が、「補陀落山」なのです。
明らかに、和歌山県の「補陀落山寺」と関係ありますね。
2018年の春には、ここにも行きました。
ここでも、たくさんの痕跡を見つけて、感動しました。
このように、特に、「東日本」の海岸沿いに、「補陀落渡海」を思わせる名前の寺や神社が、たくさんあるのです。
次回に続きます。
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熊野シークレットツアー 5 小舟
前回の続きです。
このように、絶対平和主義の「天照派」の子孫たちが、西日本から、「小舟」で、東日本に移住してきて、つくりあげたのが、「江戸」という町なのです。
だから、「江戸時代」が、260年くらい平和だったのです。
江戸時代に、「お伊勢参り」というのが流行りましたね。
「一生に一度は伊勢詣」
昔は、こう言われたらしいですね。
他にも、「熊野詣」もありましたね。
「伊勢へ七度熊野へ三度」
とも言われていたそうです。
実は、あれの本当の意味は、大いなる里帰りだったのです。
何度か書いていますが、日本人の始祖である、「イザナギ」と「イザナミ」が、最初に結婚式を挙げたのが、「伊雑宮」だっったのです。
そして、熊野から、「補陀落渡海」で、東日本へ亡命してきたのです。
江戸時代の人々は、DNAの中に、その記憶があり、その記憶が騒いだのかもしれません。
「本当のお父さんとお母さんの故郷に帰りたい! 自分の魂のルーツに帰りたい!」
この気持ちが、「お伊勢参り」や「熊野詣」だったのかもしれません。
伊勢から始まった、生粋の日本人である、「天照派」の人々が、熊野の那智から、小舟で関東に流れ着いて、「江戸時代」をつくりあげ、そして、天下泰平になった頃、故郷の伊勢に、また帰りたくなった。
こう想像したら、またまた、じわじわと、感動の波が湧き上がってきました。
繰り返しましますが、「江戸時代」が、なぜあれほど長い期間、大きな戦争がなかったかというと、この町の人々の遺伝子が、絶対平和主義の「天照派」だったからだというのが、真相だと思います。
そして、徳川家康を始めとする徳川幕府は、これを知っていたということです。
徳川家康は、「天照派」のリーダーだったようです。
壮大なスケールの歴史物語が、ここで生まれていたのですね。
関東に、「小舟」で流れ着いた、「天照派」が拠点にしていたと思われる神社や寺は、山ほどあります。
数が多すぎるので、数か所だけ例をあげます。
東京都品川区にある、「鹿嶋神社」です。
ここの境内に、大きな石碑があります。
ハイ!
「小舟」ですね。
そして、その横には、「ミカン」の木が植えてありました。
「橘」ですね。
そういえば、聖徳太子の生まれた場所も、「橘寺」でしたね。
実は、補陀落信仰の中には、
「理想郷である、補陀落山には、橘の木がある」
という信仰があるのです。
ここは、間違いなく、「補陀落信仰」の聖地なのです。
「天照派」のグループが、
「ここが、自分たちの探し求めていた、理想郷だ!」
と言っているのです。
そして、最初に大きな拠点にしたと思われる土地も、東京にあります。
ここから、江戸時代が、始まったと思われる所です。
再度、復習しておきますね。
西日本から、小舟に乗って、少しづつ長期間にわたって、東日本の地に移住してきたパイオニアたち、彼らのグループは、「イザナギ」と「イザナミ」を始祖とする子孫たちでした。
彼らは、最初の38人の子供たちの子孫でもあるのですが、長男の名前が、「別雷尊」。
これは、生まれた時に、身体が、「丹生」という宇宙エネルギーで、輝いていて、まるで、身体に雷が落ちた時のように、発光していたから、この名前だったそうです。
現代風の表現では、「凄いオーラの持ち主」というかんじですね。
「天照派」のグループは、関東地方において、いくつの地点から上陸したようですが、ある時期に、東京のある場所で、一堂に会する機会があったと思われます。
なんと、その場所は、「浅草」だったようです!
有名な「雷門」です。
「昔は、このあたりに、よく雷がよく落ちたから、雷門というのかな?」
私は長年、そう思っていたのですが、違うのです。
38人の子供の長男だった、「別雷尊」の名前から、これは名付けられたのだと思います。
「別雷尊のグループの拠点だった場所」
それが、「雷門」の場所なのだと思います。
「天照派」のグループの本部が、おそらく、ここにあったのだと思います。
ここの参道を歩いていて、一番驚いたのが、これです。
最初の「雷門」の次の門です。
なっ、なんと!
デ~ンと大きく、「小舟町」と書かれているではないですか~!!!
人目もはばからず、
「うわーー!!」
と大声を上げてしました!
今までに、これの意味に気が付いた人が、どれくらいいたんだろう?
ジャ~~ン!!
見てください!
「小舟に乗って、関東にやって来た人々が住んでいた町」
こう言っているのです。
実は、日本国内において、隠している秘密などないのです。
歴史の秘密は、どうどうと、目の前に提示しているのです。
問題は、
「それの意味を、正しく解釈できるかどうか?」
だったのです。
この提灯の真下に、金色の紋章のようなものがありました。
「小舟町」という文字が刻まれています。
これを見た時、またまた、大感動でした~!
ここが、補陀落信仰の最終地、「観音菩薩」のいる聖地だったのです。
浅草の近くに、「日本橋小舟町」という名前の街もあります。
ここは、現在は、東京都中央区の地名になっていて、昔は、日本橋区にあたる日本橋地域内だったそうです。
地名に、「日本」がついている所は、それほどたくさんはありません。
この近くには、日本銀行もあります。
江戸時代において、日銀の敷地内には、「銀座」ではなく、「金座」という土地があったのですが、ここで、金を造っていたそうです。
「お金を造る」という一番大切な仕事をやっていたのが、どうやら、小舟で江戸に辿りり着いた人々の子孫たちだったようなのです。
さらに、聖徳太子が忍者を使って、隠れて連絡をとりあっていた頃から、ここに、「手紙」の文化が生まれたようです。
日本の郵便の発祥の地も、このあたりです。
前述したように、日銀を始めとした、銀行の発祥の地でもあります。
まさに、ここが、「日本」の発祥だったのです。
「邪馬台国」や「大和」や「倭」ではなく、「日本」という共同体が形作られたのが、ここだったのかもしれません。
「小舟町」=「日本」
もしかしたら、こう言ってもいいくらい、「補陀落渡海」で東日本に向かった僧たち、つまり、「天照派」の人々であり、愛と平和の一族、そして、「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供の子孫である本当の天皇家、彼らが、「日本」の礎を固めたのだと思います。
「古代において、日本という国は、小舟から始まった!」
この驚愕の史実は、これから、少しづつ広がっていくかもしれませんね。
このように、「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方にはたくさん残っています。
最終的には、和歌山県の熊野から渡海したグループは、栃木県の日光のあたりで落ち着いたようです。
東日本においては、「天照派」が、「黒潮ロード」に乗って、小舟で漂着した場所が、
「千葉県」&「茨城県」&「神奈川県」&「東京都」&「静岡県」
主に、この5ヵ所だったようです。
それから、「埼玉県」を通って、北関方面の「群馬県」と「栃木県」に向かったのが、大きな流れだったようです。
京都の「丹後」から始まり、関西を経由して、和歌山県の「熊野」から、小舟で、「東日本」を目指した「天照派」のグループの主なルートを、シンプルに書くと、赤線のようなルートになります。
さらに、特筆すべきことがあります。
私は、「補陀落渡海」を調べていて、
「九十九里浜のあたりから、日光まで歩いて移動した時は、大変な道のりだったに違いない」
と思っていたのですが、実際には、小舟で流れに逆らいながらも、上流へと向かうことができたようです。
もしかしたら、追い風の時には、とても楽に行けたかもしれません。
現在の千葉県銚子市のあたりから、栃木県日光市まで、古代においては、「香取浦」という大きな湾と無数の川があり、なんと、太平洋から、「日光」のあたりまでは、「鬼怒川」を使って、舟で一気に行くことができたようです。
「熊野」 ⇒ 「日光」
この間は、小舟で行けたということです。
1000年前の想像図だそうです。
「補陀落渡海」の僧たちが後に、「補陀落寺」を建てた場所は、この川沿いが多いですね。
こうやって、地形で推測すると、かなり正確な歴史が把握できますね。
2018年に、補陀落渡海について、本格的な調査を始めたのですが、宇都宮市内をまわっていたら、この神社の名前が、目に飛び込んできました。
「二荒山神社」という名前の神社です。
「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と発音するそうです。
もうわかりましたね。
「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」=「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」
こうなるのです。
この神社は、和歌山県の「補陀洛山寺」と、完全に繋がっているのです。
つまり、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「補陀洛山寺」の僧侶たちは、小舟で、「黒潮ロード」を渡って来て、関東の地へ上陸した後、栃木県宇都宮市にある、「二荒山神社」にも、辿り着いたということです。
この神社の拝殿の近くの灯篭の中に、不思議なシンボルがありました。
なんと、神紋が、「菊の三つ巴」です!
私は、いろいろ調べた結果、この神紋が、日本の古代史において、最重要なシンボルだと思っています。
この神紋は、「三つ巴」と「菊花紋」が、合わさっていますね。
「日本という国家の中枢や奥底には、天照派のグループがいますよ」
こういう意味だと思います。
凄いシンボルですね~~!!
それから、しばらくして、別の日に、栃木県日光市にも行きました。
ここにも、同じ名前の神社があります。
「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」
という神社です。
有名な「日光東照宮」の隣にある神社です。
ここにも、「三つ巴」がありました。
ここも、和歌山県熊野のお寺と、密接に繋がっているのです。
だから、こうなります。
「熊野 補陀洛山寺」=「宇都宮 二荒山神社」=「日光 二荒山神社」
一説によると、「日光」という名前は、弘法大師空海が、この地を訪れた際に、「二荒」を、「にこう」と読み、「日光」の字を当て、この地の名前にしたとも言われています。
「補陀洛」→「二荒」→「日光」
こうなったそうです。
和歌山県の「補陀落山寺」、それから、栃木県の二つの「二荒山神社」が見事に繋がりましたね。
やはり、「天照派」のグループが、終の棲家に選んだ土地が、ここだったのです。
ここで、メインのグループは、ここで居住を始めたと思います。
そして、大切なことは、「日光」という太陽の光は、古代において、いったん、ここで隠れるのですが、「日食」が、暗くなったあと、再び輝きだすように、そして、「天の岩戸開き」の天照大神が、籠ったあとに、再び顔を出すように、日本という国は、「不死鳥」というのが、シンボルマークでもあり、特性なのです。
「外国から、どんなに叩かれても、戦争で負けても、経済が悪くなっても、必ず復活する」
これが、「日本」という国の底力なのです。
そして、それを裏で支えているのが、裏の古代史に登場する「天照派」の人々なのです。
今年から、また、「丹の光」を放つ日本」が、再び浮上してくると思います。
楽しみですね。
日光にもありますが、静岡県にも、「久能山東照宮」という東照宮があります。
ここにも、2018年の春に行きました。
山の頂上からの眺めも、最高でした。
「久能山東照宮」を、ネットでも調べてみました。
すると、こういう記述がありました。
〇「久能山東照宮」について
久能山の歴史
遥か遠い昔、この山は観音菩薩の霊場とされ、観音信仰の聖地でした。
久能山の歴史、「久能寺縁起」によると、推古天皇の御代(7世紀頃)、秦氏の久能忠仁が、初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し、「補陀落山久能寺」と称したことに始まります。
久能山の名称も、ここから起こりました。
なんと、ここは、元々の名前は、「補陀落山久能寺」だったというのです!
7世紀頃だから、「聖徳太子」の時代です。
しかも、創建者は、「秦氏」です。
見事に、繋がりましたね~!
驚きました。
なんでも調べてみるものですね。
他も、こういう説明も見つけました。
〇「久能山東照宮と日光東照宮の違い」
「日光東照宮」は」、徳川秀忠や家光が陰陽道などにのっとって、江戸の守り神として、神格化した徳川家康の遺体を、安置させるために作られたもの。
「久能山東照宮」は、徳川家康が静岡で亡くなり、遺言により作られたもの。
つまり、日光は、親孝行で作られたもの、久能山は、家康自身の希望場所である。
なるほど、わかりやすいですね。
入口の門の前で、記念撮影しました。
この看板を見て、ビックリしました!
わざと、草書体で、くずして書いていますね。
パンフレットでは、
「東照大権現」
という説明ですが、違うと思います。
「天照大権現」
こう書かれているのだと思います。
もしかしたら、昔は、「草書体」というのは、このように、「暗号」のような役割をしていたのかもしれませんね。
「徳川家康」の手形がありました。
意外と、小柄だったのですね。
身長、155センチ、体重、60キロだったのですね。
私は、「38歳」という年齢が、やたらと気になりました。(笑)
拝殿で参拝しました。
煌びやかですね。
こういう所には、密かに目立たない所に、本当にメッセージ性のある模様や絵などが、刻まれれてり、描かれていることが多いです。
驚いたのが、この彫刻です。
同行した友人と、驚嘆しました。
見てください!
わかりましたか?
これを、わかりやすくした絵を入手しました。
一般向けの説明文には、こう書かれています。
「家康公からの伝言」
この絵は、「司馬温公の甕割り」の絵です。
古代中国の有名な政治家、司馬温公が、7歳の時のある日、友人と遊んでいましたが、友人が誤って、水を一杯張った水瓶に落ちてしまいます。
「このままでは、友人が溺れ死んでしまう」と思った温公さんは、機転を利かし、水瓶を割ることによって、友人を助けることができたというお話です。
家康公からの伝言は、「命を大切にせよ」です。
どうですか?
これを読んで違和感を感じませんか?
「江戸時代」という凄い時代を創り上げ、日本とう国家の基礎も創り上げた、超偉大な人物の眠る聖地、さらに、そこの一番大切な拝殿の真ん中に、こんな子供でもわかるような逸話の絵なんて、描かないと思いませんか?
もうわかりましたね。
そうです。
これは、「補陀落渡海」の絵です。
おそらく、熊野から静岡の浜辺に打ち上げられた小舟から、一人の僧を、二人の仲間が救出している場面だと思えば、しっくりくると思います。
中国風の服装や髪形は、カムフラージュです。
私は、この髪形は、「二本角」、つまり、「鬼=大丹生=天皇家」を表現していると思います。
小舟の上で、鉄の箱のように釘打ちされた板を、仲間がこじ開け、浸水していた海水と一緒に、ドバ~!という音とともに、補陀落渡海の僧が、箱から出てきている場面だと思います。
もう大感動でした。
同行した友人と一緒に、何度も、何度も、
「凄いね~! 凄いね~!」
と言い合って、この発見を喜び合いました。
「補陀落渡海」
やはり、これが、日本史における最重要な出来事だったのです。
あっ、そうそう、そういえば説明するのを、すっかり忘れていました。
「どうして、家康は、天照派の人々を助けていたのか?」
という素朴な疑問です。
この家紋に、全ての意味が隠されています。
思い出してください、
旅行記の最初の頃に、書きましたね。
武闘派である「神武派」、それから、穏健派である「天照派」、この両者が仲直りした記念に、最初にやった祭りが、京都の「葵祭」でしたね。
調べてみると、昔、その祭りを執り行い、両者の仲をとりもったグループがいたようです。
それが、いわゆる、「加茂族」です。
その子孫が、どうやら、「徳川家康」だったようなのです。
ネットでの説明です。
徳川氏は京都・葵祭で有名な、加茂神社の氏子だから、加茂神社の神紋、葵を家紋として用いました。
賀茂神社の裏の神山には、葵が沢山生えており、この草を神殿の飾りや神の降臨(葵祭)に使用し、それを加茂神社の神紋としました。
神社の神紋は「二葉葵」で、それを徳川氏は、神社のシンボル、「巴」と掛けて「葵巴」としました。
その「葵巴」こそが、一般にいう「三葉葵」である、徳川家の家紋となりました。
「久能東照宮」の境内には、「双葉葵」が置かれていました。
よく見ると、葉っぱが、「♡(ハート)」の形をしていますね。
そして、これは、ダジャレで、オヤジギャグになりますが、
「家康」=「イエス」
こういう話もあります。
「家康」 → 「いえやす」 → 「いぇーやす」 → 「いえす」
「徳川家康」=「イエス・キリスト」
つまり、同じ魂グループだったということです。
おそらく、「聖徳太子」も、そうだと思います。
「イエス・キリスト」 → 「聖徳太子」 → 「徳川家康」
こうやって、同じ魂が、この三者の間を繰り返し、転生していたのかもしれません。
だから、この三者とも、「神人」なのです。
葛飾北斎が描いたと言われていて、新しい紙幣のデザインでも採用されるという絵です。
私は、これに描かれている小舟も、昔、静岡県の浜に、熊野から辿り着いた、補陀落渡海の小舟の意味も含んでいると思っています。
さて、ここからは、オマケの話題です。
熊野の補陀落山寺に行った時、お寺の壁には、皇太子殿下、「令和」という新時代においては、新天皇になる、浩宮殿下が、この寺を訪問させていいる姿の写真が、飾られてした。
殿下の独身時代だそうです。
最近、気がついたことです。
徳川家康の「徳」の文字は、元々の意味は、「十九(とく)」の意味だったかもしれません。
それから、徳川の「川」は、「三」で、「三つ巴」の意味かもしれません。
やはり、徳川家は、「天照派」だったのです。
「浩宮殿下」、つまり、新天皇の「徳仁親王」の名前にも、「徳」が入っていますね。
この名前も、分解すると、
「徳」+「二」+「人」+「親」+「王」
つまり、
「十九組の子供たち、それから、二人の親(イザナギ&イザナミ)の子孫の王様」
の意味になります。
「天照派」の王様ということです。
そういえば、大阪府堺市にある、日本最大の前方後円墳、「仁徳天皇陵(大山古墳)」も同じく、「仁徳」の文字が入っていますね。
何か関係あるのかな?
「令和」の時代の新天皇は、「補陀落渡海」などの裏の古代史に精通しているということです。
いやー、面白い時代になりそうですね〜
さらに、もう一つオマケです。
私の大好きな地上絵の話題です。
まず、これは、関西地方の普通の地図です。
次に、この土地を、むき出しの状態にした地形図です。
ジャーン!
船に乗っている人の絵が、見えますか?
日本の着物ではなく、中国などの大陸の服装をして、何かを祈っているような姿に見えますね。
つまり、この絵の意味は、
「大陸からやってきた渡来人や帰化人は、日本の関西地方に住むことを、最初から、日本の神々が決めていたのですよ」
こう言っているのだと思います。
「熊野」のあたりが、地上絵においては、「海」に相当する部分だと思います。
だとしたら、「補陀落渡海」の歴史も、ここから始まることは、最初から決まっていたのかもしれません。
これは、福岡県うきは市で発見された、「珍敷塚古墳」の壁画に描かれている絵です。
この中の「舟を漕ぐ人の絵」は、「関西の地上絵」に似ています。
この壁画は、古代の「関西地方の地図」だったのかもしれません。
上の地上絵と見比べてみてください。
そっくりですね。
関西の土地は、「エジプト文明」とも、深い関係があったと思われます。
舟の先が、同じですね。
ある時代には、「エジプト文明」と「日本文明」は、頻繁に交流していたのだと思います。
いかがでしたか?
「補陀落渡海」、面白いでしょう!
もう一度、シンプルにまとめますね。
聖徳太子の時代の後、日本は、少しづつ、なんと1000年以上の長い年月をかけて、「補陀落渡海」によって、西日本から東日本に拠点を移していったのです。
そして、その全ては、今回のメインテーマである、「熊野」から始まっていたということです。
この史実の痕跡は、日本中にあります。
ぜひ、ご自分の土地にある、神社やお寺に、何かの痕跡を見つけたら、そこに行って、短い時間でいいから、手を合わせて、祈ってみてください。
何に祈るのかというと、「補陀落渡海」を実行した人々の愛と勇気に対してです。
そして、この旅行記の内容も、少しだけ思い出していただけると、嬉しいです。
次回から、いよいよ、「熊野」の奥の院である、本当の秘密の扉が開きます。
ギッ、ギギギギギ…
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熊野シークレットツアー 3 八百万の神々
初めて読む方も多いと思うので、古代における裏の日本史、「天照派」と「補陀落渡海」の話も、再度、簡単に書いておきますね。
細かい話をすると、話が長くなりすぎるので、要点だけを書いておきます。
一説によると、古代の日本は、ある期間、二つのグループが存在していたそうです。
ハッキリとした名前がついていたわけではありませんが、ここでは、わかりやすいように、「天照派」と「神武派」という名前で呼びますね。
旅行記の最初のほうで、シュメール文明の頃から、地球を支配していた宇宙人の一族である、「アヌンナキ」の一族、それから、そのトップである、「アヌ王」の話をしましたね。
その続きの話だと思ってください。
今から50万年前に、中近東を拠点に活躍していた、この家族は、父親の「アヌ王」、それから、二人の息子、「エンリル」と「エンキ」がいたそうです。
そして、もう一人、娘がいたそうです。
その娘は、二人の兄弟の妹になるのですが、「ニンフルサグ」という名前だったそうです。
それから、いろいろな出来事があって、「アヌ王」と「エンリル」は、地球の表の王様となって、地球の政治を治めるような仕事をしていたそうです。
一方の「エンキ」と「ニンフルサグ」は、裏の王様のようなかんじになって、アフリカで、遺伝子操作の実験に没頭して、たくさんの動物を、創ったそうです。
その時に、人間も創ったそうです。
ちょっと前に、
「人間の遺伝子を遡ると、アフリカの一人の女性に辿り着く」
という学説がありましたが、この女性が、「ニンフルサグ」だそうです。
シュメール文明の粘土板に描かれている絵です。
左が、「ニンフルサグ」で、右が、「エンキ」です。
中央にあるのは、「生命の樹」だと言われています。
実は、このファミリーが、中近東に降り立つ前、もっと太古の時代に、「エンキ」と「ニンフルサグ」は、すでに、宇宙の根源からダイレクトに、やってきてたようなのです。
それは、720万年前の出来事だったそうです。
詳しいことは、思いっきり省きますが、この二人が、日本人の始祖でもあるのです。
「エンキ」=「イザナギ」
「ニンフルサグ」=「イザナミ」
魂的には、こうなるそうです。
日本人の始祖である、「イザナギ」と「イザナミ」の正体も、古代シュメール文明の「アヌンナキ」の一族だったようです。
結論だけ、先に言いますね。
「天照派」と「神武派」の二つのグループの構成は、こうなっていたようです。
〇「天照派」=「イザナギ(エンキの魂)」と「イザナミ(ニンフルサグの魂)」
「自由」と「知恵」と「愛」のグループ
〇「神武派」=「神武天皇(アヌ王&エンリルの魂)」
「平等」と「力」と「支配」のグループ
太古の日本においては、「イザナギ」と「イザナミ」が、最初に日本の国造りをしたそうですが、これは、絶対平和主義のグループで、本当に「愛の存在」だったそうです。
それに対して、後から、日本の土地にやってきた、「神武天皇」は、大陸からやってきた渡来人や帰化人のグループと組んだ、「権力志向の存在」だったそうです。
そして、かなりの長期間にわたって、「神武派」が「天照派」を弾圧したり圧政下におくということを、続けていたそうです。
「イザナギ」と「イザナミ」は後に、38人の子供を生んだそうです。
この子孫が、日本の古代史において、とても重要な流れなのです。
38人は、その後に、たくさんの子孫を増やしたそうです。
この一族の直系である、長男と長女の子孫は、「大丹生・皇」の称号を名乗り、後に、「天皇家」になったそうです。
ある時期に、この子孫の一人が、「初代天照(アマテル)」を名乗ったそうです。
この頃から、「天皇」という称号が、生まれたそうです。
念のために書いておきますが、この天皇は、古事記などに登場する、「アマテラス」とは別人で意味も違うそうです。
「古事記」は、後の天皇などが、かなり歴史を湾曲して書いているそうです。
さて、「初代天照(アマテル)」の時代から、何百万年も経った後、新しい時代が始まったそうです。
その時代は、それまでの平和な時代ではなく、動乱の時代になったようです。
きっかけは、大和地方に、「神武天皇」がやってきたのが、始まりだったようです。
この天皇のグループは、権力志向だったようです。
「神武天皇」は、シュメール文明の神様の中では、「アヌ王」と「エンリル」の二人の魂が融合したような存在だったと、私は思っています。
「天照派」のグループは、「平和」が何よりも大切だと思っていて、「愛」のグループだったと思います。
そして後から、日本の歴史に登場した「神武天皇」が、「平等」を大切だと思っている神様だったようです。
さらに、「力」の崇拝者でもあったようです。
権力によって、人々を平等に統治するという考え方ですね。
私は、どのグループがいいとか、悪いとかの判断は、やらないほうがいいというスタンスです。
国政というのは、世の中の状況によって、穏やかに統治したほうがいいこともあれば、多少は荒っぽく、人々を弾圧しなくては、治まらない時もあるからです。
この二つのグループを、さらに、わかりやすく表現すると、
〇「天照派」=「理想主義」
〇「神武派」=「現実主義」
こうなると思います。
現在の日本でも、これは、引き継がれていて、目まぐしく変化する国際情勢の中で、常に、「理想」と「現実」の問題で、政治は論争されますね。
具体的には、「平和憲法」と「自衛隊」の問題なのです。
これも、いろいろな見方ができるので、
「どの意見が正しいか?」
というのは、とても難しい問題なのです。
私が面白いと思ったのは、前述したように、「天照派」の人々は、古事記の「天照大神」とは、直接は関係ないのが、やはり、性格が似ているのです。
つまり、このグループは、
「絶対に戦わない」
という共通の姿勢があるのです。
古事記には、「アマテラス」が、弟の「スサノヲ」の乱暴ぶりに、腹を立てる場面がありますが、その怒り方が、ユニークなのです。
ご存知のように、天岩戸に隠れるのです。
要するに、「引きこもった」ということです。
本来の日本人の怒りの表現は、これなのです。
たとえば、江戸時代なども、「鎖国」をやっていますが、あれは、当時の日本人たちが、西洋人たちが、「大航海時代」などと言って、世界中を植民地化して、残酷で酷い行いをしているのを見て、怒ったのだと思います。
「あんな野蛮な人たちとは、お付き合いできません」
こう思って、国内に引きこもったのが、あの時代だったのだと思います。
おそらく、現代の日本でも、「ニート」や「引きこもり」をやっている若者は、世の中に対して、怒っているのだと思います。
生粋の日本人の怒りの表現は、「引きこもる」のです。
それに対して、「神武派」は怒ると、相手を殺したり、殴ったり、怒鳴ったり、場合によっては、戦争をしたりします。
怒りの表現の仕方が、ストレートで、わかりやすいのです。
この視点から見ると、現在の日本人にも、「天照派」と「神武派」の二つのタイプの日本人がいるような気がします。
現代の日本の社会では、やはり、「天皇家」は、「天照派」だと思います。
そして、「内閣」に代表されるような政治家たちは、「神武派」が多いような気がします。
私は完全に、「天照派」ですね。
あなたは、どのタイプですか?(笑)
生粋の日本人というのは、本来、争ったり、喧嘩したりすることが、とても苦手な民族みたいです。
とても愛に満ちていて、平和が好きな民族なのです。
何かに腹を立てて、怒っても、相手に仕返ししたり、怒鳴ったりせずに、静かにその場を立ち去ったり、無言になったり無視するという態度をとります。
本当に頭にきた時も、天岩戸に隠れるように、「引きこもる」という行動で抗議するのです。
何かに対する怒りが、頂点に達しても、頭にきた相手を、殺すのではなく、その怒りを、自分に向けたりして、自殺という抗議行動を選択する人も多いのです。
現代の日本において、多くの人々、特に感性が豊かで、敏感な若者たちが、引きこもったり、ニートになったり、登校拒否や出社拒否、それから、すぐに職場を辞めて、転職を繰り返したりするのも、静かな怒りの表現なのだと思います。
社会に対して、無言の抗議をしているのです。
ストレートな感情表現に慣れている大人たちは、これらの行動が、わかりません。
「どうして、学校に来なくなったんだろう?」
「どうして、入社したばかりの会社を、すぐに辞めたりするんだろう?」
「どうして、いつまでも親元にいて、社会に出て働かないんだろう?」
こう思っていると思います。
これが、彼らの怒りの表現の仕方なのです。
口に出して、反論したり、抗議したりしないのです。
「静かな怒り」
なのです。
これは、政府に対してもそうです。
あまりにも酷い政治をしても、生粋の日本人の多くは、大規模なデモなどの行動はしません。
ただ単に、
「投票に行かない」
という無言の抗議行動をします。
引きこもってしましまった人々が、世の中に出てくるようにするには、怒ってもダメだし、なだめたり、おだててもダメです。
「天照大神」を、天岩戸から出そうと思ったら、皆で、裸踊りをするくらいの宴会を、やらなくてはいけないのです。
つまり、
「ワクワクすること」
これが、世の中に、たくさん出てきた時に、引きこもっている人たちも、隙間から、外の世界を覗きこみ、岩戸から出たくなるのです。
「世の中は面白い! ワクワクすることで溢れている!」
私の旅行記は、一貫して、そう主張しているのです。
だから、天岩戸の中に、引きこもっているような人たちに、特に読んでいただきたいのです。
もう一度まとめますね。
「神武派」に代表される「武闘派」、それから、「天照派」に代表される「穏健派」、古代の日本には、この二つのグループが存在していたようです。
「神武派」は、「天武天皇」などのように、名前に、「武」が入っている天皇が、多かったみたいです。
文字通り、イケイケの武闘派が多かったようです。
このグループは、穏健派の「天照派」を、徹底的に弾圧していたようです。
「天照派」は、三重県いなべ市が拠点だったようですが、ここには、重要な神社が、二つあります。
一つ目は、「賀毛神社」です。
ここは、京都にある、「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」の元の神社だそうです。
「賀毛神社」=「元・上賀茂神社」
ということです。
二つ目は、ここからすぐ近くに、「鴨神社」という神社もあります。
ここは、京都の「下鴨神社(賀茂御祖神社)」の元の神社だそうです。
「鴨神社」=「元・下鴨神社」
だそうです。
この二つの神社には、「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供の長男と長女の名前、「別雷尊」と「玉依姫」の名前があるのが、興味深いです。
調べてみると、古代の日本は、最終的には、
「奈良」=「天照派」=「南朝」
「京都」=「神武派」=「北朝」
こうなったそうです。
そして、奈良を拠点にした、「天照派」が、リーダーとして選んだ天皇が、「後醍醐天皇」だったそうです。
「北朝」と「南朝」には、いろいろな複雑な流れがありますが、その根底には、この二つのグループがあったということがわかって、納得しました。
歴史に登場する、「空海」などは、この二つのグループの狭間で、苦しみながらも、「天照派」のグループをこっそりと助けていたようです。
「空海」は、うまく助けていたようです。
「天照派」の一部を四国に逃がして、四国八十ハ箇所に見張り番を置き、「神武派」から匿っていたそうです。
徳島県美馬市にある、「神明神社」です。
正式には、「磐境神明神社」 というそうです。
ここで、「天照派」の一部は、匿われていたそうです。
「いなべ」という土地から逃げてきた一族だったので、ここでは、「忌部(いんべ)」と呼ばれていたそうです。
神殿が、独特な形をしています。
「天照派」の子孫たちは、その後、日本史の中で、途中から入ってきた外来の宗教である、「仏教」を隠れ蓑に活用したようです。
たくさんの人々が、僧侶になり、お寺に身を隠していたようです。
ここで、これらの歴史を、さらに突っ込んで考えてみましょう。
こういう話を知ると、なんとなく、「神武派」が、極悪非道の存在に感じますが、物事には、いろいろな解釈ができます。
もしも、日本の国土に穏やかなグループである、「天照派」だけが住んでいたら、その後の大陸からやってきた、「元寇」などの襲来には、とても対抗できなかったと思います。
「神武派」は、まだ弾圧したりしただけですが、もしも、「元」の軍隊が日本を支配していたら、「天照派」は、拷問さたり虐殺されていたかもしれません。
日本にも、「神武派」のような武闘派は必要だったのです。
「ドラえもん」という漫画に、「ジャイアン」というガキ大将が出てきますが、たまに、隣町の不良グループがやってきたら、彼が、率先して、その不良グループから、「のび太」などの町のメンバーを、守ったりするシーンが出てきます。
「蛇の道は蛇」
「毒を以て毒を制す」
こういう諺もありますね。
「悪」に対抗できるのは、やはり、「悪」なのです。
だから、私の中では、
「神武派」=「ジャイアン」
「天照派」=「のび太」
こういう解釈になっています。(笑)
大学時代、心理学の教授から、面白い話を聴きました。
その教授が言っていました。
「人間というのは、競争をすればするほど、賢くなるし、強くなる。しかし、同時に、自分さえよければいいという、利己主義になり、人格が悪くなる。嫌な人間になるのです。一方、競争を全くやらないと、誰にでも好かれるような、愛情深い人格になりやすいです。いい人になるのです。しかし、同時に、いつまでたっても、賢くもならないし、強くもなれないのです」
「競争」と「知能」と「人格」は、こういう関係にあるということでした。
つまり、「神武派」は、競争が好きで、どんどん賢く強くなって、権力を握ったグループだったのだと思います。
一方の「天照派」は、競争が嫌いで、ひたすら皆と楽しく、幸せに暮らすことに、主眼を置いたグループだったのだと思います。
どちらも偏っていたのです。
英語の「ライバル」という単語は、「川」を意味する「リバー」と、語源的に似ているという話を、ある本で読んだことがあります。
つまり、人間というのは、大昔から、よく、川を挟んで、「A」という村と「B」という村に、分かれたのです。
その川を境にして、村や町が生まれて、お互いに、土地や農作物などの問題で争うことが、多かったのです。
「ライバル」という単語が、それほど、悪いニュアンスだけではないことからも、わかるように、こういう争いによって、お互いに、切磋琢磨して、文明を向上させてきた面もあります。
日本風にいうと、「好敵手」ですね。
お互いに、戦争することもあれば、協力して、お祭りをしたり、いろいろと複雑な人間模様が、多く生まれたのが、「川沿い」という土地なのです。
「競争」という行為自体は、中立なのです。
それが、ネガティブに表現されたものが、「戦争」であり、ポジティブに表現されたものが、「祭り」であったり、「オリンピック」などのスポーツの祭典だったりするのです。
ここからは、私の想像ですが、おそらく、「神武派」が、あまりにも酷い弾圧をしたので、さすがの「天照派」も、いろいろな対抗策を考えたと思います。
それは、時に、「働かない」というストライキだったり、究極の抗議行動として、「自害する」という人々も、たくさんでてきたのかもしれません。
考えてみればわかりますが、人々の上に立ち、威張りたい権力志向の人々も、下の人々がいるから、威張ることができるのです。
下の人々が、奴隷のように働いてくれないと、豊かな生活はできないのです。
そこで、ある時期に、
「まあまあ、そんなに怒るなよ。仲直りしようぜ。! そうだ! 一緒にお祭りでもやらないか?」
「神武派」のグループが、「天照派」のグループに、こうやって下手に出るという懐柔策を、提案したことがあったそうです。
そこで、「神武派」が、真っ先にやったのが、京都の町に、「賀毛神社」を真似て、「上賀茂神社」という神社を建てたそうです。
それから、「鴨神社」も真似て、「下鴨神社」という神社も建てたそうです。
そして、二つのグループの仲直りを兼ねて、盛大なお祭りをやったそうです。
それが、「葵祭」だったのです。
日本で最初の、全国的なお祭りだったそうです。
昔は、「祭り」といえば、「葵祭」のことを意味するくらい、「祭り」の代名詞になるくらいのイベントだったようです。
「向日葵(ひまわり)」という単語を見てもあわるように、「葵」には、本来、「ひまわり」の意味も含んでいたそうです。
つまり、
「向日葵」=「太陽」
ということです。
「葵祭」というのは、
「この世の中の全ての人々が、愛の光で、包まれますように…」
こういう願いを込めた儀式だったそうです。
以前に京都に行った時、「上賀茂神社」の拝殿の前の「立砂」というのを見ました。
「盛砂」とも言うそうです。
「立つ」とは、「神様の出現」に由来する言葉らしいですね。
あとで知ったのですが、この二つのピラミッドは、「天照派」と「神武派」の二つのグループを表現しているそうです。
「これからは、二つのグループは協力して、仲よくやっていこう!」
ここで、そういう取り決めをしたのだそうです。
「神武派」と「天照派」が、京都の「葵祭」をキッカケに、急速に仲直りをしたのですが、しかし、いつの時代でも、どこの国でも、気が強い子供と気が弱い子供が、一緒に遊んだら、気が弱い方の子供は、毎回、ナメられて、イジメられ、不愉快な思いをするというのは、普遍の事実だと思います。
おそらく、穏健派の「天照派」の人々は、武闘派の「神武派」から、いろいろな圧力によって、精神的にも肉体的にも、とても不自由な思いをしていたと思います。
そして、西日本を中心に、囲い込まれているような形になり、逃げ場のない状況で閉塞状態になっていたと思います。
陸地は、おそらく、関所みたいな場所があり、要所には見張りがいたと思います。
当時の東日本は、とても不便な場所だったし、大きな船を建造して、外国に逃げようと思っても、それもできなかったと思います。
前述した「天武天皇」は特に酷い弾圧をして、「天照派」の人々には、
「土地をもってはいけない。職業についてもいけない。他の部族と結婚してもいけない」
こういう法律をつくり、乞食の立場に追いやったそうです。
それで仕方なく、お寺のお坊さんになって、そこで質素な生活を始めた人々も多かったようです。
「天照派」の人たちは、そうやって虐げられた状況の中、心の優しい、何人かの権力者たちに助けられながら、少しづつ移動していったようです。
私が調べたところ、関西地方に住んでいた、「天照派」の人々は、出雲地方にも拠点を移したグループが、一部いたようです。
その痕跡が、現在でも「出雲大社」に残っています。
広い境内の中に、こういう細長い祠が二つあることに、気が付いた人も多いと思います。
ほとんど何も書かれていません。
これは、東に「十九社」あり、西にも「十九社」あるそうです。
ハイ!
「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供たちですね。
「天照派」であり、日本の本当の天皇家ですね。
2018年に、「出雲大社」に行ったのですが、これを知って驚きました。
見てください。
「十九社」の御祭神が、「八百万萬神」と書かれています。
いわゆる、「八百万の神々」ですね。
つまり、旧暦10月に、毎年、全国の「八百万の神々」が出雲の国に集まり、他の土地では、神様が留守になるので神無月で、出雲では神在月になるのですが、ここに集まる神々である、「八百万の神々」の正体は、「イザナギ」と「イザナミ」の子供たち、38人のことだったということです。
このグループは、その後も、少しづつ日本中に散らばり、歴史の表舞台には出ないで、裏から地味な活動を続けていたようです。
現代でも、このグループが、「裏天皇」などと呼ばれていて、日本を陰で動かしているのだと思います。
次回に続きます。
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熊野シークレットツアー 2 ゴトビキ岩
今回の熊野の旅では、拠点を、新宮市に決めました。
やはり、この街が、熊野のエリア内で、一番アクセスがいいみたいです。
熊野のどこにも、わりとスムーズに行けました。
新宮駅の近くには、徐福の公園もあります。
この人物については、今までに何度も書いていますが、知れば知るほど、不思議な存在ですね。
徐福の墓だそうです。
熊野では、熊野速玉大社にも行きました。
ここも、2回目の訪問でした。
手水舎の龍が、凄い迫力でした。
三つ巴に、二羽の八咫烏が描かれていました。
拝殿で、記念撮影しました。
拝殿の中です。
美しいですね。
熊野恵比寿神社という摂社が、境内の奥にありました。
ご存知のように、「恵比寿」は、「ヒルコ」が成長した神様だとも言われています。
だとしたら、太古の時代、ここにも、「ヒルコ」が、何らかのかたちで、関与していたということです。
瓦には、「恵比寿」の姿の神様もいました。
そして、恵比寿様は、「龍神」や「鬼」とも関係があります。
「金」の文字にも見えますが、私には、「プロビデンスの目」にも見えました。
シュメール文明の「アヌ王」の息子、「エンキ」ですね。
この後、速玉大社の近くの「阿須賀神社」にも立ち寄りました。
「阿須賀」の名前は、奈良県の「明日香」や「飛鳥」とも関係があると思います。
ここにも、徐福の痕跡がありました。
祠です。
「✕」の形は、「アヌンナキ」のシンボルでもあります。
だとすると、やはり、徐福も、この一族のメンバーだったということですね。
これは、「アヌ王」の息子である、「エンキ」が、人間たちに、占星術を教えている場面だそうです。
棚のような物に、「✕」のシンボルが、描かれていますね。
拝殿で記念撮影しました。
新宮市では、 周辺にある小さな神社にも立ち寄りました。
浜王子社です。
ここは、「補陀落渡海」に関係した神社ですね。
「補陀落渡海」については、旅行記の中で、後ほど詳しく書きますね。
これらの石碑は、実は小舟を表現しています。
そして、足元が黒いのは、「黒潮」の意味です。
神社や寺に置かれているものは、全てに深い意味があるのです。
「王」という文字が刻まれた瓦もあります。
拝殿にも、「王」の文字が刻まれています。
ここで、古代史における最大の謎だと言われている神様、「ヒルコ」について、もう一度、復習しておきましょう。
日本の神話の中には、
「ヒルコは、双子だった」
という記述があるそうです。
それぞれ、「ヒルコ」と「ヒルメ」というそうです。
これは、おそらく、その双子の正体が、シュメール文明では、前回紹介した、「アヌ王」の子供たち、「エンキ」と「ニンフルサグ」であり、日本では、「イザナギ」と「イザナミ」だったということだと思います。
これも面白いです。
有名なエジプトの「ツタンカーメン」のマスクを見てください。
「コブラ」のような姿のヘビが、おそらく、「ヒルコ」の正体だと思います。
そして、隣にいる、「アヒル」のような存在が、「ヒルメ」なのかもしれません。
別の解釈も可能です。
つまり、シュメール文明の神々である、「アヌ王」の二人の息子、「エンリル」と「エンキ」でもあるのです。
〇「ヒルコ」=「エンキ」=「爬虫類の神様」=「亀」=「口の閉じた狛犬(吽)」=「出雲大社」
〇「ヒルメ」=「エンリル」=「鳥の神様」=「鶴」=「口の開いた狛犬(阿)」=「伊勢神宮」
こうなります。
さらに、上記の写真、「ツタンカーメン」のマスクは、もしかしたら、「ヒルコ」と「ヒルメ」が実態で、人の顔の部分は中身は虚で、その中身は空っぽだったかもしれません。
つまり、擬態です。
よく、「葉っぱ」に化けた虫がいますよね。
ほとんどの虫が、「葉っぱ」の部分が大きいのですが、そこは、天敵に食べられても大丈夫な「羽」などの部分で、大切な「頭」は、外れのほうに小さくあります。
仏像なども、「小さい身体」と「大きな身体」が合体した仏様がありますが、これも、「大きな身体」のほうが「虚」で、「小さな体」のほうが「実」なのかもしれません。
これは、沖縄の首里城に展示してある、琉球王国の国王が使っていた印鑑です。
上記の「ツタンカーメン」の仮面にある、「アヒル」の姿にソックリですね。
これは、「ヒルメ」だと思います。
これも何度も紹介していますが、福岡県の沖ノ島で発見されたものです。
「ヒルメ」ですね。
これが、「ドラゴン」の原型でもあったかもしれません。
土で創った、「ドラゴン」と「人間」のハイブリッドの存在だったかもしれません。
一説によると、「ヒルコ」と「ヒルメ」の双子は、こういう系統になるそうです。
〇「ヒルコ」=「銅鐸の文化」=「出雲」=「スサノオ」
〇「ヒルメ」=「銅鏡の文化」=「伊勢」=「アマテラス」
おそらく、「ヒルコ」のほうが、九州を中心にした邪馬台国で、「ヒルメ」のほうが、関西を中心にした邪馬台国だったのだと思います。
そして、両者とも、しばしば人間の姿に変身して、「スサノオ」や「アマテラス」になったのだと思います。
ただし、この場合、あまり細かいことは考えなくもいいと思います。
「ヒルコ」と「ヒルメ」は双子で、ツインレイの魂なので、名前などは、どちらでもいいということです。
人間の悪い癖は、名前などでカテゴリー別に分けることに、執着することです。
「ヒルコ」だと思われる存在は、縄文土器や土偶にも、たくさん形作られています。
これも、そうですね。
さて、ここからが本番です。
ご存知のように、日本列島の神社や寺、それから、古墳など、主要なパワースポットを線で結ぶと、しばしば、面白い意味や解釈ができるラインを発見することができます。
新しい彗星などを発見したら、その発見者の名前を付けることができるように、新しいラインは、自分で勝手に名付けてもいいと思います。
2018年の12月に、私が個人的に新発見したラインです。
私は、このラインに、「不死身ライン」と名付けました。
「不死身ライン」は、北は北海道から南は、熊野地方まで伸びていました。
まず、北海道から解説していきましょう。
そもそも、「北海道」の形が、「ドラゴン」なのです。
つまり、形的に、「ヒルコ」のお母さんだということです。
北海道の正体は、「ドラゴン」、もっと具体的に言うと、「クッシー」です。
「目」の部分のあたりに、「八幡岳」という山があります。
「八幡」=「ヤハウェ」=「エンリル」
ですね。
さらに、「上ノ国」という名前の町もありました。
「神の国」
ですね。
「左手」になるのが、「室蘭」のあたりです。
そして、「右手」になるのが、なんと、今回の旅で訪れた、「神威岬」だったのです。
「背中」や「腰」の部分にあたるのが、この道内の中心部分ですね。
「左脚」が、「根室半島」になります。
「右脚」が、「知床半島」です。
「尾」になるのが、「国後島」と「択捉島」です。
最高に面白いのが、「厚岸湾」と「屈斜路湖」です。
クッシーが、「雌」だと仮定すると、この二つの部分は、「子宮」の両側の器官に当たる、「卵巣」になるのです。
こんなかんじです。
わかりますか?
だから、「屈斜路湖」から、クッシーの赤ちゃんが生まれているのです。
「クッシー(北海道)」が、子宮の卵巣で、クッシーの赤ちゃんを産んでいたのです。
もう一つの卵巣は、「厚岸湾(湖)」でしたね。
ここにも、数年前に行きました。
この湾にある、「厚岸神社」です。
このエリア内には、「龍王殿」という摂社もありました。
その近くには、男根型の石柱がありましたが、今考えると、これは、「ヒルコ」と「ヒルメ」の双子の意味だと思います。
この地上絵の解釈です。
もしかしたら、北海道で、「ヒルコ」と「ヒルメ」の双子は、生まれていたのかもしれないということです。
北側の「屈斜路湖」で生まれたほうの一匹は、「クッシー」になったということです。
南側の「厚岸湾(湖)」で生まれたもう一匹目は、南西に向かったのかもしれません。
これは、もう一つの卵巣から伸びているラインを、赤ペンで引いたものです。
北海道の「不死身ライン」を南西の方向に伸ばしていくと、面白いことに気が付きます。
「神倉神社」ー「伊勢神宮」ー「恵那神社」ー「ツチノコの土器の発掘場所」
これらの土地が、ライン上に、一直線に並んだのです!
全部、「イザナギ」と「イザナミ」、「ヒルコ」と関係ある聖地です。
解説しますね。
まず一番東側の点は、長野県の「富士見町」を通ります。
これは、「ツチノコの縄文土器」が発見された場所です。
そして、西側に、二つ目の点は、恵那山の近くにある、「富士見台」という地名を通ります。
この近くには、「恵那神社」があり、ここも、「イザナギ」と「イザナミ」に関係しています。
つまり、「ヒルコ」の両親と関わりの深い土地だということです。
2016年に訪れた時の写真です。
それから、そこのさらに西側には、問答無用の聖地、「伊勢神宮」があります。
ここも通ります。
そして、最後には、なんと、熊野地方の「神倉神社」の「ゴトビキ岩」に到達するのです。
今回の旅では、神倉神社にも立ち寄りました。
車を走らせていたら、遠くからでも、この巨岩が見えました。
空には、面白い形の雲が出ていました。
私には、「八咫烏」に見えました。
神倉神社に着きました。
鳥居の前です。
いろいろ迷ったのですが、結局、この階段は登りませんでした。
理由は、足首を痛めていたからです。
これは、テレビで見た画像です。
2018年12月に放映された熊野の特集番組で、ドローンからの撮影画像が流れてましたが、この岩の正体がわかりました。
ほとんどの岩は、このアングルからの撮影ですね。
この角度からでは、岩の正体は、わかりません。
ドローンでの撮影画像が流れました。
見てください!
いいですか?
いきますよ。
ジャ~ン!
なんと、この岩の正体は、「ヒルコ」、つまり、「ツチノコ」の親分だったのです!
これには、心底驚きました!
ちゃんと、両目がありますね〜!
「ゴトビキ岩」の意味は、「ヒキガエル」だそうですが、本当は、その子供の「オタマジャクシ」だと思います。
やはり、「ヒルコ=ツチノコ」だったということです!
前方後円墳の形でもありますね、
あとは、柄杓の形で、北斗七星ですね〜
見事に繋がりました。
このツチノコの親分は、まだ生きていると思います。
親分は、巨岩として、熊野の神倉神社の御神体、ゴトビキ岩として、鎮座していましたのです。
熊野地方を調べていて、最後まで理解できなかったのが、この岩だったのですが、ようやく意味がわかりました。
「ゴトブキ岩=ヒルコ=ツチノコ」
こういうことだったのです。
日本の神様の最大の秘密である「ヒルコ」、そして、その答えは熊野地方にありました。
ここまでの話を、全てをまとめます。
もちろん、私の仮説です。
「北海道=ドラゴン」の二つの卵巣から、双子である「ヒルコ」と「ヒルメ」が生まれ、一匹は屈斜路湖から、UMAである「クッシー」に変身した。
もう片方の一匹は、厚岸湾で生まれ、長野県富士見町や恵那山近くの富士見台などに、「ツチノコ」として出現してのではないでしょうか?
それが、昭和の時代の「ツチノコ騒動」だったのではないでしょうか?
他にも、その存在は、分裂したり姿を変えたりして、沖ノ島の土偶になったり、琉球王国の印鑑にもなったのかもしれません。
さらには、エジプト文明においては、「ツタンカーメン」の身体の一部にもなっていたのかもしれません。
「ヒルコ」は、その正体が神様なので、時空間や形に束縛されない、変幻自在の存在なのです。
そして、最終的には、神倉神社の「ゴトビキ岩」になったのではないでしょうか?
いや~、こうやって、いろいろ空想すると、最高に面白いですね〜!
次回に続きます。
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熊野シークレットツアー 1 八咫烏
昨日の昼間、「八咫烏」について、いろいろ考えていたら、マンションのベランダに、なにやら変わった黒い物体が、目に留まりました。
近づいてみると、その正体は、カラスでした。
ここまで間近で、カラスを見ることは珍しいです。
カラスって、やはり、デカイですね〜
この面白いシンクロから、
「これは、そろそろ、熊野の旅行記で、八咫烏のことを書けというメッセージかなぁ?」
と思いました。
それで、今日から、さっそく熊野を旅した時の思い出を、旅行記として書こうと思います。
先日も、「ブラタモリ」で、タモリさんたちが、この土地を訪れていましたね。
この地が、改めて注目され始めてきているのだと思います。
まずは、「八咫烏」について、おさらいしながら、話をすすめていきますね。
ほとんどの宇宙人は、宇宙の法律のようなものがあって、地球への直接介入は、認められていないそうです。
しかし、「アヌンナキ」の一族は、地球にとっては、親戚のような存在だったため、太古の時代においては、わりと直接的に、人間に関わることが許されていたようです。
この一族は、シェイプシフト、つまり、変身能力があるために、いろいろな姿形になるので、この一族を論じる時には、話がとても複雑になります。
ここでは、思いっきり簡単に書いておきます。
「二ビル」という名前の惑星から、50万年前くらいに地球にやってきたとも、言われています。
「アダムとイブ」などの人類創世にも関わった神様です。
「アヌンナキ」の意味です。
聖書などのヘブライ語の、「Elohim(エロヒム)」という単語は、本来、
「el(天)」+「im(人間の複数形)」=「天より地に降りし者たち」
つまり、
「天空より飛来した人々」
という意味で、れっきとした、人間の複数形なのです。
「他の惑星から、UFOで、この地球にやってきた人たち」
ということです。
さらに、「Anunnaki(アヌンナキ)」という宇宙人グループの名前は、古代シュメール語で、
「anu(天空)」+「na(~から)」+「ki(地球)」
これも、
「天より地に降りてきた」
という意味で、全体として、「エロヒム」と、同じ意味なのです。
「エロヒム」=「アヌンナキ」
だということです。
両方とも、
「星から来た神々」
という意味です。
太古の時代、地球においての最高神だったのが、「アヌ王(アヌンナキ一族の王様)」だったと言われています。
他にも、いろいろな名前があり、「天神アン」や「アン」など、土地によって、様々な呼び方がされていたようです。
この男性の神様(宇宙人)から、地球の歴史は、主に始まっているのです。
彼が、地球の計画書みたいなものを作成して、そのプラン通りに、歴史は動いているのです。
だから、「his story(彼の物語)」なのです。
この二語を組みわせた造語が、「history(歴史)」だということです。
「歴史」の秘密は、そのまま、文字に表現されていたのです。
そのまんまなのです。
素直に解釈すればいいだけの話です。
諸説ありますが、これらの写真は全て、「アヌ王」だと言われています。
ライオンを、ペットのように抱いていますね。
これは、アフリカのお祭りの写真です。
おそらく、「アヌ王」だと思います。
一般的な「アヌ王」の姿です。
鳥の姿に、シェイプシフトした時の「アヌ王」だそうです。
鳥と人間の中間の姿、つまり、背中から翼を生やした姿でも、よく空を飛び回っていたようです。
彼は、「ゾロアスター教」の最高神、「アフラ・マズダー」でもあったみたいです。
「ユダヤ教」や「イスラム教」や「ミトラ教」それから、「バラモン教」などの最高神でもあります。
中近東のあたりで発生した宗教の源を辿ると、全てがこの神様にいきつきます。
わかりやすいイラストにすると、こうなります。
これは、「シュメール文明」の壁画に描けかれている絵です。
これらの空を飛んでいる物体も、そうだと思います。
聖書の中では、キリストが、洗礼者であるヨハネから、バプテスマ(洗礼)を受けるとき、天から聖霊が降りてきたと言われています。
この絵では、キリストの頭上に、「白い鳥」がいるのが、わかりますね。
ついでに、その白い鳥の右下にも、「黒いカラス」のような存在があることにも、注目していてください。
宇宙考古学の視点では、この場面に対して、とてもユニークな解釈をすることができます。
「この白い鳥、さらに、黒いカラスは、アヌ王だったのではないだろうか?」
つまり、「アヌ王=アフラ・マズダー」が、「鳥」の形に、シェイプシフトして、さらに、サイズを小さくして、キリストの頭上に、現れたのではないかということです。
何が言いたいかというと、
「特別な人を洗礼する場合、地球の真の王である、アヌ王自らが、宇宙からやって来て、次の地球の王になる人物を、直接、任命していたのではないだろうか?」
ということです。
たとえば、神武天皇にも、歴史上の最重要な場面で、「鳥」がやってきました。
「八咫烏」と呼ばれている鳥ですね。
上の「キリストの洗礼」の場面にいる、「黒いカラス」のような物体と、似ていませんか?
同じ存在だったのではないですか?
だとしたら、「アヌ王」、「キリスト」、「神武天皇」これらの三者は、同じ魂のグループだということになります。
下記の写真は、北極上空を通過しながら、地球軌道を移動している謎の巨大人工衛星です。
謎の物体は、「"Black Knight" Satellite" ブラック・ナイト・サテライト(黒騎士の衛星)」と名づけられているそうです。
この人工衛星の存在は、1960年から確認されているそうです。
有名な科学者、ニコラ・テスラも、この存在を知っており、この衛星とコンタクトをしていたようです。
NASAによって提供された、「黒騎士の衛星」の写真です。
「アヌ王」の乗っているUFOなんじゃないですか?
もしくは、「アヌ王」が、UFOの形に、シェイプシフトしているんじゃないでしょうか?
ちなみに、これは、有名なアメリカのUFOコンタクティ、ケネス・アーノルドという人が、目撃したUFOです。
1947年6月24日に目撃して、「空飛ぶ円盤(フライングソーサー)」という言葉にもなりましたね。
そして、この日は、現在でも世界中で、「UFOの記念日」になっています。
もしかしたら、このUFOも、「アヌ王」が、シェイプシフトしたUFOだったのかもしれません。
福岡県の「竹原古墳」に描かれている壁画を、わかりやすく描き直した絵です。
この絵は、宇宙考古学的に最重要な絵です。
遠くの「黒い三日月」のような物体が、「アヌ王」が、シェイプシフトしたUFOだと思います。
「黒い三日月」に、注目してください。
最近、どこかで、見かけませんでしたか?
SF映画、「メッセージ」の中に出てきますね。
この映画の内容は、「フィクション」というよりは、私は、
「別のパラレルワールドの地球で、実際に起こっている出来事」
だと捉えています。
この映画の凄いのは、人によって、受け取るメッセージが、全く違うということです。
「愛」だったり、「パラレルワールド」だったり、「生き方」、「宇宙人」、「言語学」、「未来」などなど、いろいろな捉え方ができると思います。
ここでは、「宇宙考古学」の視点から、解釈しますね。
これは、前述したように、地球の支配者である、「アヌ王」が、「黒い半月型のUFO」に、シェイプシフトした存在を、表現していると思います。
映画の中では、雲の中から出てきてましたね。
「雲の中から、出てきた神様」
こう言えば、すぐにわかりますね。
「出雲大社」ですね。
「出雲」に祀られている神様は、このUFOと縁が深い神様だということです。
このUFOを、「神」と崇めている宗教は、他にも、世界中に、たくさんあります。
有名なのは、旧約聖書の中で、「モーゼ」が、
「あなたのお名前は、なんと言うのですか?」
と、神に質問した時に、返ってきた答えが、
「わたしは、有って有る者です」
という返答だったと言われています。
全地を創った神の御名は、「有る」なのです。
神は、全ての存在の根源ですから、その御名が、「ある」や「存在する」であることは、ピッタリで、ふさわしいのかもしれません。
「出雲大社」のシンボルマークにも、これが書かれています。
「有」という文字は、「大」と「月」から構成されていますね。
わかりましたね。
「大きな月」という意味です。
「出雲大社」の本当の御神体は、このUFOなのです。
つまり、古代の地球で、絶対的な支配者だった、「アヌ王」だということです。
大阪の「住吉大社」にも、御神体として祀られていました。
多くの神社にある、「鏡」も、このUFOが支えているのが、わかりますね。
そろそろ、旅行記に入ります。
今回も、素敵な旅仲間たちと、楽しくまわりました。
熊野本宮大社にも行きました。
ここを訪れるのは2回目です。
皆で、「いっぷく」という素敵なお店で、待ち合わせしました。
今回のメンバーです。
ここで、美味しい蕎麦を食べて、腹ごしらえをしました。
なんと、店員の方が、私のブログの読者でした。
最近、このパターン、やけに多いな…(笑)
鳥居の前でも、記念撮影しました。
「八咫烏」のオブジェです。
ちゃんと、3本足になっていますね。
これは、「熊野本宮大社」の御社殿に入る前の門です。
ここに飾られている「しめ縄」に注目してください。
ハイ!
「ゾロアスター教」の最高神、「アフラ・マズダー」ですね。
「八咫烏」の正体も、「アフラ・マズダー」であり、「アヌ王」だったということです。
つまり、まとめると、
「アヌ王」=「アフラ・マズダー」=「八咫烏」=「黒い半月型のUFO」
こういうことです。
参拝しました。
ここで、面白い話をしておきましょう。
数年前から、私が本気で調査している、日本列島に無数に刻まれている、「地上絵」の話題です。
これは、2018年の秋に、発見した地上絵です。
実は、伊勢を中心にして、近畿地方のエリアは、「アヌ王」の地上絵になっているのです。
しかも、ちゃんと三本足になっていて、「八咫烏」になります。
「近畿地方」=「八咫烏」=「アヌ王」=「アフラ・マズダー」で
だったのです。
いきますよ。
ジャ~ン!
わかりやすいように、赤ペンで、補助線を描いてみました。
上半身は人間で、下半身が鳥の姿の神様ですね。
伊勢の辺りは、このアヌ王の横顔ですね。
イースター島のモアイのように、長い顔です。
頭の辺りには、大王崎もあります。
鳥羽という地名は、「鳥の羽を広げ広げた姿の神様」という意味だったのですね。
伊勢神宮は、この神様の脳にあたるエリアだったのです。
つまり、伊勢神宮に参拝に行くのは、直接、地球の最高神である王様の脳に、直接願い事をしに行く行為だったのです。
私は、これを発見した時、驚愕して、しばらくは、ブルブルと身体の震えていました。
イースター島の「モアイ」です。
だとしたら、「モアイ」の石像の正体も、「アヌ王」だったということです。
もう一度、「アフラ・マズダー」です。
近畿地方の正体は、太古の時代、地球の最高神だった、「アヌ王」だったのです。
そういう目で、伊勢を見ると、凄い土地だということがわかりますね。
今回のテーマである、「熊野」は、この「アヌ王」の右肩や右腕、それから、右手にあたります。
つまり、この土地も、とても大事なエリアだということです。
今回の旅で気がついたのは、なんと、「熊野本宮大社」の境内も、「八咫烏(アフラ・マズダー)」の形になっていたということです!
「熊野本宮大社」=「八咫烏(アフラ・マズダー)」
だったのです。
神社の地図を見てください。
境内の地図が、八咫烏の形になっています。
横顔と三本足がわかりますか?
ちゃんと、目と鼻と口もあり、左側を向いていますね。
「本殿」は、「脳」にあたりますね。
三つ目の足は、後ろ側にある、旧神殿だった 「大斎原」を、ガッツリと掴んでいます。
気になったので、「大斉原神社」にも立ち寄りました。
ここも、2回目の訪問です。
熊野本宮大社から、徒歩5分くらいにあります。
日本一だと言われている、「大鳥居」です。
デカイですね~!
この手水舎にある黒い球は、UFOを表現していると思います。
元々、境内だった場所には、今は何もありません。
昔は、この川の中州に、「熊野本宮大社」があったそうですが、ある時に水害で、全部壊されたそうです。
それで、現在の場所に引っ越したとのことでした。
二つの祠があります。
一説によると、「イザナギ」と「イザナミ」を祀っているそうです。
私には、この石碑は、「補陀落渡海舟」に見えました。
ここの案内板に、興味深い説明書きがありました。
大事な個所を拡大しますね。
見てください!
「熊野の神々は、中洲のイチイの巨木の梢に三体の月の姿で降臨した」
と書かれているではないですか~!
またまた感動しました。
「昔、この神社の境内の木々に、3機の黒い半月型のUFOが、滞空したことがある」
と言っているのです。
「熊野本宮大社」は、日本において、とても古い神社です。
つまり、日本の神社が祀っていた神々は、アヌンナキの一族だったということです。
確実な証拠ではなく、単なる状況証拠のようなものを、集めただけですが、それでも、まったくデタラメな話ではないということが、このことから、確信できました。
私が長年、
「世界中の宗教などで、語られている神々は、同じ存在だったのではないだろうか?」
と思っていたことが、確実に、繋がったので、とても嬉しくなりました。
世界中の神様は、根源を辿って行けば、全て同じ存在なのです。
これがわかったら、宗教戦争なんて、バカバカしくなってきますね。
次回に続きます。
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武士道の精神
4月3日(水)に、思うところあって、広島県呉市にある、大和ミュージアムに行ってきました。
詳しいことは、また後日、旅行記に書く予定ですが、最近は、第二次世界大戦について、調べています。
歴史というのは、とてつもなく深い闇に隠されているのですが、それも、新しい時代には、どんどん、真相が白日の下にさらされることになると思います。
今から、楽しみですね。
以前にも書いたのですが、いい話なので、再掲載します。
だいぶ前の話ですが、比田井和考さんの「私が一番受けたいココロの授業 パート2」という題のDVDを観ました。
この中で、講師の比田井先生が、日露戦争の真実の話に、とても感銘を受けました。
1905年5月27日。
これは、世界史的な大事件があった日です。
日露戦争の時に、日本が、ロシアのバルチック艦隊を破った日だそうです。
「なぜ大事な日なのか?」
ということなんですが、当時、1905年頃は、世界中の国が、欧米列強諸国に侵略され、植民地にされていたそうですが、アジアでは、なんと日本とタイの2国以外は、すべて他の国から、植民地化されていたそうです。
アジアの独立国は、2国だけという状況だったそうです。
そして、この2国以外のアジア諸国では、とても残酷で酷いことが行われていたようです。
戦後の日本の教育では、GHQの洗脳教育で、かなり歪んだ歴史観を植え付けられているので、あまり知られていませんが、当時のアジアは欧米諸国から、かなり酷い目にあっていたようです。
ロシアといえば、当時、本当に大きな強い国だったようです。
ただ一つの弱点は、国自体がとてつもなく寒いことだったようです。
冬になると、どこの港も凍って使えなくなっていたようです。
そのため、ロシアの国策としては、凍らない港を手に入れることが、ものすごく大事だったようです。
だから、南下政策といって、いろんな国をどんどん占領しながら、南へ南へと下ってきて、中国も占領していったようです。
日本もこのままでは、占領されてしまうんじゃないかという危機感をもっていたようです。
それで日本は、南下してくるロシアと中国で戦っていたわけです。
一方でロシアは、どうしたかというと、日本軍の日本本国からの供給を絶つために、黒海から、「世界最強の艦隊」といわれていた、バルチック艦隊を出撃させ、日本海まで攻めてきたわけです。
アフリカ沖からインド洋、それから、東シナ海、そして、日本海というコースで、この艦隊は、日本を目指したそうです。
ところが何と、日本はその世界最強のバルチック艦隊に勝ってしまったんです。
しかも、あっという間に、時間にして数時間だったそうですが、バルチック艦隊を壊滅状態にしてしまったんです。
日本は、ほぼ無傷だったそうです。
ここで、
「いやぁー、日本って、すごかったんですね。」
ということじゃなくて、
「なぜ、日本が勝てたか?」
ということが大事なのです。
NHKの「坂の上の雲」などのドラマでも、よく描かれていましたが、その当時、日本では、まだ「武士道の精神」というのがあって、
「敵でも敬う」
というのが、当たり前だったそうです。
国民の間では、近いうちに戦争をするであろうロシアに対して、卑下するような汚い言葉や差別用語を、使うことがあったそうですが、
国の方から、
「そういった言葉を一切使ってはいけない、敵を卑しめるような言葉は、一切使ってはいけない」
というお達しが出たそうです。
特に、「露助」などというロシア人に対する蔑称は、厳しく禁止されたそうです。
驚くことに、愛媛県の松山市には捕虜収容所があったそうですが、ロシアの捕虜が来ると、市長が出迎えて歓迎の挨拶をしたそうです。
「ロシアのみなさん、大変でしたね。いらっしゃったからには、どうぞ、この松山市で、ゆっくりしていって下さい」
なんて言って、いろいろなお世話を親切にしたそうです。
「捕虜」というと、鉄条網の塀に囲まれた、狭いところに押し込められて、ひどい生活で、肉体労働をさせられている、というようなイメージがありますが、全然ちがったそうです。
この捕虜収容所は、なんと出入りも自由だったそうです。
ロシアの捕虜たちは、比較的自由に松山市内を歩けたそうです。
将校クラスだと、路面電車に乗ることもでき、有名な「道後温泉」という温泉でも、捕虜たちは、ゆったりと温泉に浸かっていたそうです。
さらには、日露戦争の終わった後には、松山市を気に入った将校などは、ロシアから家族を呼び寄せ、松山市内で一緒に永住したロシア人もいたそうなのです。
私自身も、15年くらい前に松山市内に仕事で行ったときに、「道後温泉」の中で、この話が書いてある本を読み、ビックリしたおぼえがあります。
「戦争」のイメージが、ぜんぜん変わりますね。
この写真は、現在の愛媛県伊予市で、接待を受ける捕虜のロシア将校たちと日本人女性だそうです。
日付は、1904年9月だそうです。
こんな場面、どの時代でも、どこの国でもなかったと思います。
松山市だけなんじゃないかな?
当時の日本人としては、
「たとえ、敵であっても、人を人として敬う」
ということが、当たり前だったそうです。
これが、「武士道の精神」ですね。
そして日本が、そんな国だということを、実は世界中の国が、よく知っていたそうです。
なんと、敵側のロシア兵もそれを知っていて、戦争中に戦場で殺されそうになったら、
「マツヤマー!!」
と大声で叫んで、日本軍に許してもらうようにお願いしたそうです。
「こんなところで、私は死にたくない。お願いだから、日本の松山市に連れて行ってください。そこには、天国のような温かい温泉もあるそうじゃないですか。お願いだから、殺さないでください!」
という意味だったようです。
だから、世界中の人々が、
「日本という国を何とかして、助けてやらなければいけない。日本は地球全体の最後の希望の砦だ。」
と思ってくれていたそうです。
日露戦争では、バルチック艦隊が黒海を通って、何日も何日もかけて、日本に向かっていたのですが、何日もかけて来るわけですから、バルチック艦隊も途中で港に寄りたかったみたいです。
休みたいでしょうし、食料や燃料の補給もしたかったでしょう。
でもその頃、世界中が、
「日本を、助けなければいけない!」
と思ってくれていたおかげで、バルチック艦隊が、港に寄りたいと言っても、全ての国が、それを拒否したのだそうです。
港に寄らせてくれなかったそうです。
それで、結局バルチック艦隊は、ロシアから、一度も休むことなく日本海に来たのだそうです。
バルチック艦隊が、日本海に来た頃には、もうヘトヘトに疲れ果てていて、そのおかげで、日本は勝てたという話なんだそうです。
その時、アメリカも、ロシアに対して、
「もう負けを、認めろ!」
と勧めてくれたそうです。
こんな話、初めて知りました。
日本の教科書には、どこにも書いてありませんね。
つまり、あの戦争というのは、日本人の力が凄かったわけじゃなくて、結局は、
「日本人の心のあり方が、世界中の人の心を動かして、世界中の人が、日本を助けてくれた」
そういう意味で、この1905年5月27日は、世界史上で、とても大事な日なんだそうです。
また、日本が勝ったのを見て、世界中の人が喜んでくれて、それをきっかけに、アジアの他の国々も、独立できたそうです。
凄い日だったんですね。
なんと調べてみたら、日本では戦前は、この日は、国民全ての休日になっていました。
今からでも、もう一度休日にしても、いいくらいの記念日ですね。
ちなみに、その後の第二次世界大戦の頃には、いろいろな事情で、余裕がなくなっていたせいも、あると思うのですが、日本は、この一番大切な「武士道の精神」がなくなってきて、敵国のアメリカ人に対して、
「鬼畜米英!」
と国民の皆が、蔑称を使うようになっていました。
その結果は、ご存じのとおりです。
ただ、第二次世界大戦では、日本は負けていないという解釈もあるそうです。
というのは、日本の第二次世界大戦のそもそもの「戦争目的」は、
「欧米列強から、アジアの国々を解放する」
というのが、目的だったわけで、その後、アジアは解放された状態になったわけだから、日本の戦争目的は、達成されたということなのです。
だから、
「負けた」
というのは、あくまでも、
「アメリカなどの国に負けた」
というだけの話で、日本は、
「自国が掲げた戦争目的は果たした。だから、あの戦争は成功だった」
という解釈もできるそうです。
だから、8月15日は、「敗戦記念日」と言わずに、「終戦記念日」という名前に、なっているそうです。
「たとえ、敵であっても、人を人として敬う」
という「武士道の精神」、これは、素晴らしい姿勢ですね。
「たとえ、戦争中だという極限状況の中でも、人としての最低限の礼儀や決まりは守る」
という考え方です。
これからの地球の世界平和への道には、こういう精神が、とても強く求められてくるような気がします。
「力による世界征服」
ではなく、
「愛による世界聖福」
ですね。
日本って、やはり素晴らしい国だったんですね。
また、道後温泉に行きたくなってきました。
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