精神世界の鉄人

UFOやチャネリング、霊、輪廻、超古代文明などの不思議な話題から、ビジネス、経済、政治、歴史、文化などの社会問題、そして、恋愛や結婚、ダイエット、旅などの現実的な話題まで、幅広く、日々感じたことを、書き綴ってみますね。

福島アースツアー 3 白虎隊

今回は、有名な「白虎隊」の話題です。

ウィキペディアでの説明です。

 

白虎隊は、会津戦争に際して、会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。

中には志願して生年月日を改め、15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として、13歳の少年も加わっていた。

名前の由来は、中国の伝説の神獣である、「白虎」からである。

 

私は、宇宙考古学的に見た場合、この史実には、二つの神様グループが、関与していたと考えています。

結論だけを言うと、その関与の理由などは、基本的には、よくわかりません。

なぜならば、神様や宇宙人たちは、未来も過去も、全部わかっていて、指図したりするからです。

場合によっては、500年後や1000年後の未来のために、人間を動かすこともあるのです。

だから、人間の狭い視点では、

「どうして、そういう戦争を、今、起こすのか?」

その理由がわからないことも多いです。

 

では、宇宙考古学の視点から、「白虎隊」の背後にいた神様グループを推察してみます。

「白虎隊」に関与しいていた神様グループ、最初の一つ目の話です。

 

福島県の旅では、郡山市にある、「高屋敷稲荷神社」にも立ち寄りました。

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境内には、「白狐社」という摂社がありました。

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拝殿です。

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この文字を見ていたら、「白虎隊」と繋がりました。

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ここで、「お稲荷さん」のことも、簡単に、おさらいしておきましょう。

シュメール文明の石像です。
「イナンナ」だと言われています。

「レプティリアン(爬虫類人)」ですね。

子供を抱いています。

「聖母マリア」の正体も、この宇宙人だったようです。

ちなみに、陰謀論などで言われているような悪い存在ではありません。

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「イナンナ」の顔、「キツネ」に、そっくりではないですか?

昔の日本人で、「イナンナ」を見た人は、他にピッタリ当てはまる動物がいなくて、一番姿が似ている、「キツネ」だと認識して、それが全国に広まったんじゃないかな?

「稲荷(いなり)=イナンナ」

音も、そっくりですね。


昔から、日本の各地で、

「狐の嫁入りを見た!」

という目撃談がありますが、それは、「イナンナ」が、部下を引き連れて歩いていたのを、たまたま、目撃したんじゃないでしょうか?

これは、あるお祭りで、女性がキツネのお面を被って、花嫁衣裳を着ている姿です。
「イナンナ」が、上記のような素の顔で、頭からヘルメットのようなものを被って歩いていたら、こういう姿なんじゃないでしょうか?

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そもそも、もしも、「動物霊」が、それほど偉い存在なのであれば、なぜ、「キツネ」と、いつも、ペアで登場する、「タヌキ」の神社が、極端に少ないのでしょうか?

なぜ、「狐の婿入り」の姿は、見た人がいないんでしょうか?

こう考えていくと、

「お稲荷さん=イナンナ」

この説は、かなり状況証拠が整っているように思えてきます。


日本で、一番勢力のある神様、「お稲荷さん」の正体は、地球の支配者であった、「イナンナ」でもあったのです!

 

特に、「白い狐」の姿の「お稲荷さん」は、「イナンナ」だと思います。

つまり、

「白虎隊」というのは、「白狐隊」の意味も、隠されていたのかもしれません。

つまり、この隊には、霊的な存在として、「お稲荷さん」が背後についていたと思うのです。

「イナンナ」という女神は、「愛の女神」でもありますが、同時に、「戦闘の女神」でもあったのです。

「聖母マリア」でもありのですが、この女神は、一般的なイメージでは、やさしい神様のイメージですが、同時に、「戦いの神様」でもあるのです。

詳しいことは、後述しますが、「アヌンナキ」のグループは、日本においては、「神武派」になります。

 

「聖母マリア」のソウルグループが、太平洋戦争を仕切っていたという状況証拠は、たくさんあります。

 

歴史を調べると、聖フランシスコ・ザビエルが、日本に初めて上陸した日が、1549年8月15日で、聖母被昇天の祭日だったそうです。
このように、上陸した日まで決まっていたのです。
これも、別に悪気があったわけではなく、ザビエル本人は、
「聖母の保護のもとに置けば、日本国民は、幸せになれると思った」
と記述しているそうです。

太平洋戦争が始まったのは、1941年12月8日ですね。
この日は、「無原罪の聖マリアの祭日」という記念日でした。
太平洋戦争が終わったのが、1945年8月15日です。
この日は、「聖母マリアの被昇天の祭日」です。
戦後のサンフランシスコ講和条約の調印の日は、1951年9月8日です。
この日は、「聖母マリアの誕生日」だそうです。

 

戦争などの本当の黒幕は、人間ではなかったのです。

なんと、「稲荷=聖母マリア=イナンナ」という女神だったのです。

私は、いろいろな状況証拠から、この結論は、間違いないと確信しています。

詳しいことは、割愛させていただきますが、これも、絶対悪ではありません。

神の視点では、深い理由があって起こした戦争だったみたいです。

 

 

次に、「白虎隊」に関与しいていた、二つ目の神様グループです。

ちょっと長い話になりますが、お付き合いください。

 

古代の日本は、ある期間、二つのグループが存在していたそうです。

ハッキリとした名前が、ついていたわけではありませんが、ここでは、わかりやすいように、「神武派」と「天照派」という名前で呼びますね。

 

「神武派」は、今から50万年前に地球では、中近東を拠点に、「アヌンナキ」という宇宙人の一族が活躍していましたが、そこから流れてきた大陸のグループです。

この中のメンバーには、前述した、「イナンナ」もメンバーに入っています。

日本では、神武天皇が、そのグループのリーダーだったようです。

 

「天照派」は、もっと太古の時代に、すでに宇宙の根源からダイレクトに、日本にやってきてたグループです。

それは、720万年前の出来事だったそうです。

このグループのほうが、古くから地球にいたのです。

イザナギとイザナミが、このグループのリーダーです。

日本人の始祖ですね。

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 結論だけ、先に言いますね。

「天照派」と「神武派」の二つのグループの構成は、こうなっていたようです。

 

 〇「天照派」=「イザナギ」と「イザナミ」

〇「神武派」=「神武天皇」

 

太古の日本においては、「イザナギ」と「イザナミ」が、最初に日本の国造りをしたそうですが、これは、絶対平和主義のグループで、本当に「愛の存在」だったそうです。

それに対して、後から、日本の土地にやってきた、「神武天皇」は、大陸からやってきた渡来人や帰化人のグループと組んだ、「権力志向の存在」だったそうです。

そして、かなりの長期間にわたって、「神武派」が「天照派」を弾圧したり圧政下におくということを、続けていたそうです。

 

「イザナギ」と「イザナミ」は、38人の子供を生んだそうです。
この子孫が、日本の古代史において、とても重要な流れなのです。

38人は、その後に、たくさんの子孫を増やしたそうです。


この一族の直系である、長男と長女の子孫は、「大丹生・皇」の称号を名乗り、後に、「天皇家」になったそうです。

ある時期に、この子孫の一人が、「初代天照(アマテル)」を名乗ったそうです。

この頃から、「天皇」という称号が、生まれたそうです。

念のために書いておきますが、この天皇は、古事記などに登場する、「アマテラス」とは別人で意味も違うそうです。
「古事記」は、後の天皇などが、かなり歴史を湾曲して書いているそうです。

 

さて、「初代天照(アマテル)」の時代から、何百万年も経った後、新しい時代が始まったそうです。

その時代は、それまでの平和な時代ではなく、動乱の時代になったようです。

きっかけは、大和地方に、「神武天皇」がやってきたのが、始まりだったようです。
この天皇のグループは、権力志向だったようです。


「天照派」のグループは、「平和」が何よりも大切だと思っていて、「愛」のグループだったと思います。

そして後から、日本の歴史に登場した「神武天皇」が、「平等」を大切だと思っている神様だったようです。
さらに、「力」の崇拝者でもあったようです。
権力によって、人々を平等に統治するという考え方ですね。

 

私は、どのグループがいいとか、悪いとかの判断は、やらないほうがいいというスタンスです。

国政というのは、世の中の状況によって、穏やかに統治したほうがいいこともあれば、多少は荒っぽく、人々を弾圧しなくては、治まらない時もあるからです。


この二つのグループを、さらに、わかりやすく表現すると、

〇「天照派」=「理想主義」
〇「神武派」=「現実主義」

こうなると思います。

 

現在の日本でも、これは、引き継がれていて、目まぐしく変化する国際情勢の中で、常に、「理想」と「現実」の問題で、政治は論争されますね。

具体的には、「平和憲法」と「自衛隊」の問題なのです。

これも、いろいろな見方ができるので、

「どの意見が正しいか?」

というのは、とても難しい問題なのです。

 

私が面白いと思ったのは、前述したように、「天照派」の人々は、古事記の「天照大神」とは、直接は関係ないのが、やはり、性格が似ているのです。

つまり、このグループは、

「絶対に戦わない」

という共通の姿勢があるのです。


古事記には、「アマテラス」が、弟の「スサノヲ」の乱暴ぶりに、腹を立てる場面がありますが、その怒り方が、ユニークなのです。

ご存知のように、天岩戸に隠れるのです。
要するに、「引きこもった」ということです。

本来の日本人の怒りの表現は、これなのです。

 

たとえば、江戸時代なども、「鎖国」をやっていますが、あれは、当時の日本人たちが、西洋人たちが、「大航海時代」などと言って、世界中を植民地化して、残酷で酷い行いをしているのを見て、怒ったのだと思います。

「あんな野蛮な人たちとは、お付き合いできません」

こう思って、国内に引きこもったのが、あの時代だったのだと思います。

 

おそらく、現代の日本でも、「ニート」や「引きこもり」をやっている若者は、世の中に対して、怒っているのだと思います。
生粋の日本人の怒りの表現は、「引きこもる」のです。
それに対して、「神武派」は怒ると、相手を殺したり、殴ったり、怒鳴ったり、場合によっては、戦争をしたりします。
怒りの表現の仕方が、ストレートで、わかりやすいのです。


この視点から見ると、現在の日本人にも、「天照派」と「神武派」の二つのタイプの日本人がいるような気がします。

現代の日本の社会では、やはり、「天皇家」は、「天照派」だと思います。
そして、「内閣」に代表されるような政治家たちは、「神武派」が多いような気がします。

私は完全に、「天照派」ですね。
あなたは、どのタイプですか?(笑)

 

生粋の日本人というのは、本来争ったり、喧嘩したりすることが、とても苦手な民族みたいです。

とても愛に満ちていて、平和が好きな民族なのです。

何かに腹を立てて、怒っても、相手に仕返ししたり、怒鳴ったりせずに、静かにその場を立ち去ったり、無言になったり無視するという態度をとります。
本当に頭にきた時も、天岩戸に隠れるように、「引きこもる」という行動で抗議するのです。

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何かに対する怒りが、頂点に達しても、頭にきた相手を、殺すのではなく、その怒りを、自分に向けたりして、自殺という抗議行動を選択する人も多いのです。

現代の日本において、多くの人々、特に感性が豊かで、敏感な若者たちが、引きこもったり、ニートになったり、登校拒否や出社拒否、それから、すぐに職場を辞めて、転職を繰り返したりするのも、静かな怒りの表現なのだと思います。
社会に対して、無言の抗議をしているのです。


ストレートな感情表現に慣れている大人たちは、これらの行動が、わかりません。

「どうして、学校に来なくなったんだろう?」

「どうして、入社したばかりの会社を、すぐに辞めたりするんだろう?」

「どうして、いつまでも親元にいて、社会に出て働かないんだろう?」

こう思っていると思います。


これが、彼らの怒りの表現の仕方なのです。
口に出して反論したり、抗議したりしないのです。

「静かな怒り」

なのです。


これは、政府に対してもそうです。

あまりにも酷い政治をしても、生粋の日本人の多くは、大規模なデモなどの行動はしません。

ただ単に、

「投票に行かない」

という無言の抗議行動をします。

 

引きこもってしましまった人々が、世の中に出てくるようにするには、怒ってもダメだし、なだめたり、おだててもダメです。

「天照大神」を、天岩戸から出そうと思ったら、皆で、裸踊りをするくらいの宴会を、やらなくてはいけないのです。

 

つまり、

「ワクワクすること」

これが、世の中に、たくさん出てきた時に、引きこもっている人たちも、隙間から、外の世界を覗きこみ、岩戸から出たくなるのです。

「世の中は面白い! ワクワクすることで溢れている!」

私の旅行記は、一貫して、そう主張しているのです。
だから、天岩戸の中に、引きこもっているような人たちに、特に読んでいただきたいのです。

 

もう一度まとめますね。

「神武派」に代表される武闘派、それから、「天照派」に代表される穏健派、古代の日本には、この二つのグループが存在していたようです。


「神武派」は、「天武天皇」などのように、名前に、「武」が入っている天皇が、多かったみたいです。
文字通り、イケイケの武闘派が多かったようです。

このグループは、穏健派の「天照派」を、徹底的に弾圧していたようです。

 

古代の日本は、最終的には、

「奈良」=「天照派」=「南朝」

「京都」=「神武派」=「北朝」

こうなったそうです。

 

そして、奈良を拠点にした、「天照派」が、リーダーとして選んだ天皇が、「後醍醐天皇」だったそうです。

「北朝」と「南朝」には、いろいろな複雑な流れがありますが、その根底には、この二つのグループがあったということがわかって、納得しました。

 
「天照派」の子孫たちは、その後、日本史の中で、途中から入ってきた外来の宗教である、「仏教」を隠れ蓑に活用したようです。
たくさんの人々が、僧侶になり、お寺に身を隠していたようです。

 

 

穏健派の「天照派」の人々は、武闘派の「神武派」から、いろいろな圧力によって、精神的にも肉体的にも、とても不自由な思いをしていたと思います。

そして、西日本を中心に、囲い込まれているような形になり、逃げ場のない状況で閉塞状態になっていたと思います。

陸地は、おそらく、関所みたいな場所があり、要所には見張りがいたと思います。
当時の東日本は、とても不便な場所だったし、大きな船を建造して、外国に逃げようと思っても、それもできなかったと思います。

 

天武天皇は特に酷い弾圧をして、「天照派」の人々には、

「土地をもってはいけない。職業についてもいけない。他の部族と結婚してもいけない」

こういう法律をつくり、乞食の立場に追いやったそうです。

それで仕方なく、お寺のお坊さんになって、そこで質素な生活を始めた人々も多かったようです。

 
「天照派」の人たちは、そうやって虐げられた状況の中、心の優しい、何人かの権力者たちに助けられながら、少しづつ移動していったようです。

私が調べたところ、関西地方に住んでいた、「天照派」の人々は、出雲地方にも拠点を移したグループが、一部いたようです。

その痕跡が、現在でも「出雲大社」に残っています。

広い境内の中に、こういう細長い祠が二つあることに、気が付いた人も多いと思います。

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これは、東に「十九社」あり、西にも「十九社」あるそうです。

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ハイ!

「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供たちですね。

「天照派」であり、日本の本当の天皇家ですね。

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2018年に、「出雲大社」に行ったのですが、これを知って驚きました。

見てください。

「十九社」の御祭神が、「八百万萬神」と書かれています。

いわゆる、「八百万の神々」ですね。

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つまり、旧暦10月に、毎年、全国の「八百万の神々」が出雲の国に集まり、他の土地では、神様が留守になるので神無月で、出雲では神在月になるのですが、ここに集まる神々である、「八百万の神々」の正体は、「イザナギ」と「イザナミ」の子供たち、38人のことだったということです。

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このグループは、その後も、少しづつ日本中に散らばり、歴史の表舞台には出ないで、裏から地味な活動を続けていたようです。

 

 

もう少し、この38人の神様、つまり、「八百万の神々」のグループについて、説明しておきますね。

基本的には、このグループは、権力欲や金銭欲などが全くなく、宇宙から地球にやってきた、

「植物」-「動物」-「人間」

この三者が、バランスよく回転しているだけで、地球という惑星は、うまく循環するという考え方です。

だから、この世界観で動いているのです。

それが、多くの神社にあるシンボル、「三つ巴」なのです。

 

 

古代の日本列島の中で、「天照派」のグループは、常に、「神武派」の追っ手から、ひたすら逃げていたそうです。

関西地方からは、奈良県の吉野、それから、和歌山県の熊野の奥地に逃げたようです。

 

「熊野」の土地を旅していて感じたのは、「王子」という名前がつく神社が、たくさんあるということです。

一般的には、「王子」とは、「熊野権現の御子神」だと、考えられているようです。


昔から、不思議だったのですが、そもそも、どうして、「熊野」というのでしょうか?
この土地に、たくさんの「熊」が生息している「野山」というわけでも、なさそうです。

調べると、元々は、「熊」という文字は、「畏」だったそうです。

「畏れ多い」 

という表現で使いますね。

つまり、「熊野」という土地は、「畏の」という意味で、

「畏れ多い神々の住む聖地」

という意味だそうです。

 

「王子神社」というのは、大阪あたりから始まり、和歌山県の熊野まで、北から南に、広く分布しています。
それらは、総称して、「熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)」と呼ばれていたそうです。

一般的には、「九十九」というのは実際の数ではなく、「数が多い」という意味で使われることが多いですね。
しかし、実際、最盛期には、99ヵ所くらいの「王子」と呼ばれる土地があったそうです。

 

ここからは、私の想像です。

おそらく、このエリアには、「八百万の神々」、つまり、38人の子孫の末裔がいたのだと思います。
そして、99人の王子、つまり、天皇家のリーダーが、99人住んでいたのだと思います。
99のグループに、分かれていたのだと思います。

 

よくよく考えてみてば面白い話です。

歴史上、いつの時代も、どこの国でも、「王様」は一人だけです。
そして、「王子様」も、数人くらいしかいなくて、「王様」の椅子を狙って、王子様同士で、喧嘩したり、戦争することになると、だいだい決まっています。

また、「王子」という単語も、日本的ではありません。
中国などの大陸での称号ですね。

 

おそらく、「天照派」の人々は、絶対平和主義だったから、そもそも争わなかったのだと思います。
そして、「王座を狙う」などという椅子取りゲームにも、興味がなかったのだと思います。
99人も王子様がいたのならば、それから先の時代に、少なくする方向ではなかったと思います。
もっと多くしようと思っていたと思います。

 

最終的には、99人どころか、999人、9999人、99999人…
こんなかんじで、日本全国、全ての人々が、「王子」の身分になるような国家を目指したのではないでしょうか?

つまり、現代の「国民主権」や「民主主義」を、この時代に思い描いていたのではないでしょうか?

 

そして、そんな彼らが夢を見て、最初に、実現させたのが、天下泰平だった、「江戸時代」だったのではないでしょうか?

現代は、いつでも美味しいものが、食べれれて、皆が、飛行機や新幹線で、いろいろなところに、旅行に行けますね。
まさに、「国民皆王子」の時代ですね。

この時代に、未来の「民主主義」を思い描いた、99人の王子たちのことをイメージしていたら、目から涙が出てきました。

 

 

絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、ある時期から、関西を中心にした西日本では、閉塞状態になっていたようです。

陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。

そもそも、仮に東日本に行っても、当時は、大半の土地は、荒れた僻地だったので、行ってもそこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。

 

それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。

「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」

ある時、こう決意したのだと思います。

しかし、海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。


そんなとき、一人の救世主が現れます。

「聖徳太子」

この人物が助けたのです。
聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが始まったのです。

救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。

 

私は、「聖徳太子=キリスト説」を主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。

聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。

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彼らにとっては、「西日本」は、まるで監獄にいるように、不自由な土地でした。

そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。
よいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!


熊野地方には、日本史における、最重要な寺があります。

「補陀落山寺」という小さなお寺です。

「世界遺産」に指定されています。

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「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られているそうです。

私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。

補陀落渡海のうち、半数以上が、熊野那智で行われています。

聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは行われていたそうです。

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結論だけ、簡単に言いますね。

この小舟に、お坊さんを一人だけ乗せて、入水自殺に見せかけて、東日本に亡命させていた。

これが、「補陀落渡海」の真相だったのです。


奇妙な形をした小さな船です。
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途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から突き放したようです。

「よ~し! 行ってこ~い!」

こう叫んだかどうかはわかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。
すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。

そして、うまく、「黒潮」の乗れば、それは大きな河のような流れで、「東日本」まで、運んでくれたのです。

 

そして当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏にいろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前にその場所に着いていた人々が、その僧侶を助けたのだと思います。

その背後で、この秘密の脱出劇を計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。

 

黒潮です。

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「西日本」 ⇒ 「東日本」

これを繋ぐメインストリートが、海だったというのは驚きですね。
しかも、大きな船ではなく、「小舟」だったというのもビックリです。


私たちは、歴史においては、「民族大移動」というのは、大人数でのイメージがありますが、それは大陸の話です。

聖書には、そう書かれていますが、日本では全く状況が違い、秘密裏に一人づつ、長い年月をかけての移動だったようです。

 

その期間、聖徳太子の時代から、江戸時代にかけて、なんと、1000年間くらい続いていたそうです!

これだけの長い年月をかけて、少しづつ、「天照派」の僧侶、つまり、本当の天皇家の一族を東日本に逃がし、そこで、おそらく現地の女性と結婚して、子孫を広げていくという活動をしていたのだと思います。

目的は、「平和」と「愛」の遺伝子を、未来の日本に残すためです。

 

 

東日本にある、房総半島の痕跡です。
「補陀落渡海」の僧侶たちが、「西日本」から、「小舟」で辿り着いた場所に、行ってきました。

場所は、千葉県の「九十九里浜」です。

これも、もうわかりましたね。

「九十九人の王子のグループが辿り着いた浜」

こういう意味だったのです!


さらに、この「九十九里」という漢字を分解すると、

「九」+「十」+「九」+「十」+「口(くに)」+「土」

となり、意味は、

「三十八の国土」

という意味になります。

 

着く場所が、どうして港ではなく、ただのビーチだったのでしょうか?

砂浜だからいいのです。

砂浜だと、大きな船は接岸できません。
沖に錨を下ろして、小舟で来ることになります。
砂浜という地形は、小舟じゃないと上陸できないのです。

大きな船が接岸できる港だったら、すぐに追っ手に見つかってしまいます。


昔、ここで、「天照派」の僧侶が、「小舟」から仲間によって救助されて、上陸したと思ったら、大感動でした。
「浜鳥居」という名前だそうです。

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「補陀落渡海」によって、「九十九里浜」に上陸した後、辿り着いた僧侶たちは、このルートを歩いたようです。

「浜鳥居」→「神洗神社」→「神埼神社」→「玉前神社」

大まかな地図です。

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房総半島においては、「玉前神社」のあたりに、一旦、落ち着いたグループもいたようです。

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このように、絶対平和主義の「天照派」の子孫たちが、西日本から、「小舟」で、東日本に移住してきて、つくりあげたのが、「江戸」という町なのです。
だから、江戸時代が、260年くらい平和だったのです。

江戸時代が、なぜあれほど長い期間、大きな戦争がなかったかというと、この町の人々の遺伝子が、絶対平和主義の「天照派」だったからだというのが、真相だと思います。

そして、徳川家康を始めとする徳川幕府は、これを知っていたということです。

 

「徳川家康」は、「天照派」のリーダーだったようです。

「徳」は、「十九(とく)」だと思います。

つまり、19組で38人のグループである、「八百万の神々」の子孫だということです。

「川」は、横にすると、「三」で、「三つ巴」の意味だと思います。

「19」や「38」という数字は、このグループを象徴するナンバーみたいです。

 

栃木県の岩舟町にある、「将門神社」にも、「十九」の数字の神様が祀られていました。

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このように、「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方にはたくさん残っています。
最終的には、和歌山県の熊野から渡海したグループは、栃木県の日光のあたりで落ち着いたようです。

それから、「埼玉県」を通って、北関方面の「群馬県」と「栃木県」に向かったのが、大きな流れだったようです。
京都の丹後半島から始まる、「天照派」の足跡ですが、和歌山県の「熊野」から、小舟で、「東日本」を目指したルートを、シンプルに書くと、赤線のようなルートになります。

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私は、「補陀落渡海」を調べていて、
「九十九里浜のあたりから、日光まで歩いて移動した時は、大変な道のりだったに違いない」
と思っていたのですが、実際には、小舟で流れに逆らいながらも、上流へと向かうことができたようです。
もしかしたら、追い風の時には、とても楽に行けたかもしれません。

現在の千葉県銚子市のあたりから、栃木県日光市まで、古代においては、「香取浦」という大きな湾と無数の川があり、なんと、太平洋から、「日光」のあたりまでは、「鬼怒川」を使って、舟で一気に行くことができたようです。
「熊野」 ⇒ 「日光」
この間は、小舟で行けたということです。
1000年前の想像図だそうです。

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「補陀落渡海」の僧たちが後に、「補陀落寺」を建てた場所は、この川沿いが多いですね。
こうやって、地形で推測すると、かなり正確な歴史が把握できますね。


2018年に、補陀落渡海について、本格的な調査を始めたのですが、宇都宮市内をまわっていたら、この神社の名前が目に飛び込んできました。
「二荒山神社」という名前の神社です。

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「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と発音するそうです。
「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」=「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」
こうなるのです。
この神社は、和歌山県の「補陀洛山寺」と、完全に繋がっているのです。
つまり、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「補陀洛山寺」の僧侶たちは、小舟で、「黒潮ロード」を渡って来て、関東の地へ上陸した後、栃木県宇都宮市にある、「二荒山神社」にも、辿り着いたということです。


栃木県日光市にも、同じ名前の神社があります。
「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」という神社です。

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こうなります。
「熊野 補陀洛山寺」=「宇都宮 二荒山神社」=「日光 二荒山神社」

和歌山県の「補陀落山寺」、それから、栃木県の二つの「二荒山神社」が見事に繋がりましたね。
「天照派」のグループが、拠点に選んだ土地が、ここだったのです。
メインのグループは、ここで居住を始めたと思います。

 

そして、どうやら、福島県にも、このグループは、どこかの時代で、栃木県の日光から辿りつき、ここも、終の棲家に選んだようなのです。

だから、福島という土地も、「天照派」の子孫が、たくさんいるのだと思います。

「愛と平和」の遺伝子をもつ人々ですね。

 

ちなみに、「天照派」は、「日食」をシンボルマークにしています。

「いったん、闇の世界に入り、それから、光の世界に行く」

こういう世界観なのです。

だから、

「いったん死んでから、もしくは、死んだふりをしてから、再度生き返る」

というのが、彼らの生きざまのパターンなのです。

 

そして、彼らの世界観は、「星信仰」でもあり、「妙見信仰」とも繋がるようです。

だから、「妙見信仰」がある土地は、彼らの拠点だった所なのです。

 

 

福島県では、会津若松市にある、「栄螺堂」にも行きました。

螺旋構造や外観が、サザエに似ていることから通称で、「サザエ堂」と呼ばれているそうです。

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記念撮影しました。

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のぼっていきました。不思議な感じでした。

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私には、最上階は、小型のプラネタリウムに感じました。

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この建物の近くに、「白虎隊」の墓がありました。

案内を見てください!

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「十九士霊像」と書かれていますね。

そうです。

この隊には、もうひとつ、「天照派」の霊団も、サポートについていたのです。

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お墓に着きました。

そこには、19人分ありました。

実際の史実を語る時には、この人数には、諸説あるのですが、大切なのは、現在の祀られている人数なのです。

こういう数字に、メッセージが隠されているのです。

「十九」という数字に、意味があるのです。

ちゃんと数えて、19の墓があったのを確認したとき、身体が、じ~んと痺れるのを感じました。

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この墓から、ちょっと歩いた場所には、隊士たちが、壮絶な最期を遂げたと言われている、「白虎隊自刃の地」があります。

 

一説によると、白虎隊は、若松城周辺の火災を目にし、落城したと誤認して悲観したと伝えられています。

飯盛山に至った隊士たちは、若松城に戻って、敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とで、意見がわかれ、激論になったようです。
しかし、いずれにせよ、負け戦覚悟で行動したところで、敵に捕まり生き恥をさらすことになるだけと思い至り、武士の本分を示すため、ここで自刃を決行したということです。

 

この行動から、この隊が、二つの神様グループの合併型だったことが、推察できるのです。

つまり、「敵と戦うことを望む」や「敵陣に斬り込んで玉砕」の激論していた時の意識状態の時は、「イナンナ(聖母マリア)」の神様グループが彼らの意識に降りてきた状態だったかもしれません。

「戦いの女神」ですね。

でも、最終的に選んだ選択肢、「自刃を決行する」という意識状態の時は、「天照派」」のグループが、意識に降りてきたかもしれません。

 

簡単にまとめます。

「白虎隊」には、戦うグループである、「神武派」。

それと、平和のグループである、「天照派」。

二つの真逆の神様グループが、陰から指示を出していていて、最終的には、「天照派」の指示に従ったのが、この隊の決断だったと言えるのかもしれません。

 

ここにも、意味深な像がありました。

遠くを見ているような姿ですね。

この姿の深い意味が分かる人は、少ないと思います。

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東京都にある靖国神社には、大きな銅像が建てられています。

「大村益次郎」という人物だそうです。

この方は、近代日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に尽力されたそうです。

それで、ここに立派な銅像が立っているようです。

 

この像は、双眼鏡を持っています。

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幕末で活躍した、勝海舟や坂本龍馬などの志士たちには、「妙見信仰」の持ち主が多かったそうです。

これは、北極星や北斗七星などの「星信仰」でもあったそうです。

 

「妙見」には、いろいろな隠された意味があるそうです。

その中の一つには、こういうのもあるそうです。

「妙」という文字は、「絶妙」や「妙案」という単語に見られるように、

「いうに言われぬほど優れていること」

というニュアンスがあるそうです。

 

「妙見」とは、「優れた視力」という意味があるようなのです。

さらに、その奥底には、

「善悪や心理を、鋭く見通すことのできる力」

「まだ見ぬ未来を、見ることのできる力」

こういう意味もあるようです。

 

私は個人的に、さらに深い意味、

「歴史を長いスパンで、見渡すことができる力」

こういう意味もあったと思います。

つまり、

「過去と現在と未来という時間軸の流れの中で、500年や1000年という長いスパンで、世界全体のことを見渡すことができて、広い視点から、世の中を動かすことのできる能力」

これを身につけるための教えが、「妙見信仰」だったと思うのです。

 

 だから、この像は、「大村益次郎」という人物ではなく、本当に重要なのは、さりげなく手にしている、「双眼鏡」なのです。

この小道具には、

「遠くの未来を見つめている目」

という意味が隠されているのだと思います。

冒頭に書いたように、幕末や太平洋戦争の時には、500年や1000年先の日本と世界の未来のために動いた人々が、たくさんいたということです。

 

そうなのです。

「白虎隊」のメンバーも、そういう未来の日本を思い描きながら、その時点で、自分たちができる最善の選択をした人々だったのです。

だから、彼らの死は、決して無駄死にではなく、現在の日本の平和に、しっかりと繋がっているのです。

 

 

この日のメンバーで、調査の旅の終わりに、打ち上げしている場面です。

皆さん、お疲れ様でした。

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ウオーミングアップが終わったので、次回から、そろそろ佳境に突入します。

福島県の秘密の扉を、初めて開きます。

 

では、いきますよ。

 

ギッ、ギギギギギ…

 

 

 

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