精神世界の鉄人

UFOやチャネリング、霊、輪廻、超古代文明などの不思議な話題から、ビジネス、経済、政治、歴史、文化などの社会問題、そして、恋愛や結婚、ダイエット、旅などの現実的な話題まで、幅広く、日々感じたことを、書き綴ってみますね。

栃木ヒストリーツアー 2 補陀落渡海

前回の続きです。

 

古代の日本列島の中で、「天照派」のグループは、常に、「神武派」の追っ手から、ひたすら逃げていたそうです。

関西地方からは、奈良県の吉野、それから、和歌山県の熊野の奥地に逃げたようです。

 

「熊野」は、今までに、5回ほど訪れていますが、この土地を旅していて感じたのは、「王子」という名前がつく神社が、たくさんあるということです。

一般的には、「王子」とは、「熊野権現の御子神」だと、考えられているようです。


昔から、不思議だったのですが、そもそも、どうして、「熊野」というのでしょうか?
この土地に、たくさんの「熊」が生息している「野山」というわけでも、なさそうです。

調べると、元々は、「熊」という文字は、「畏」だったそうです。

「畏れ多い」 

という表現で使いますね。

つまり、「熊野」という土地は、「畏の」という意味で、

「畏れ多い神々の住む聖地」

という意味だそうです。

 

「王子神社」というのは、大阪あたりから始まり、和歌山県の熊野まで、北から南に、広く分布しています。
それらは、総称して、「熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)」と呼ばれていたそうです。

一般的には、「九十九」というのは実際の数ではなく、「数が多い」という意味で使われることが多いですね。
しかし、実際、最盛期には、99ヵ所くらいの「王子」と呼ばれる土地があったそうです。

 

ここからは、私の想像です。

おそらく、このエリアには、「八百万の神々」、つまり、38人の子孫の末裔がいたのだと思います。
そして、99人の王子、つまり、天皇家のリーダーが、99人住んでいたのだと思います。
99のグループに、分かれていたのだと思います。

 

よくよく考えてみてば面白い話です。

歴史上、いつの時代も、どこの国でも、「王様」は一人だけです。
そして、「王子様」も、数人くらいしかいなくて、「王様」の椅子を狙って、王子様同士で、喧嘩したり、戦争することになると、だいだい決まっています。

また、「王子」という単語も、日本的ではありません。
中国などの大陸での称号ですね。

 

おそらく、「天照派」の人々は、絶対平和主義だったから、そもそも争わなかったのだと思います。
そして、「王座を狙う」などという椅子取りゲームにも、興味がなかったのだと思います。
99人も王子様がいたのならば、それから先の時代に、少なくする方向ではなかったと思います。
もっと多くしようと思っていたと思います。

 

最終的には、99人どころか、999人、9999人、99999人…
こんなかんじで、日本全国、全ての人々が、「王子」の身分になるような国家を目指したのではないでしょうか?

つまり、現代の「国民主権」や「民主主義」を、この時代に思い描いていたのではないでしょうか?

 

そして、そんな彼らが夢を見て、最初に、実現させたのが、天下泰平だった、「江戸時代」だったのではないでしょうか?

現代は、いつでも美味しいものが、食べれれて、皆が、飛行機や新幹線で、いろいろなところに、旅行に行けますね。
まさに、「国民皆王子」の時代ですね。

この時代に、未来の「民主主義」を思い描いた、99人の王子たちのことをイメージしていたら、目から涙が出てきました。

 

 

絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、ある時期から、関西を中心にした西日本では、閉塞状態になっていたようです。

陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。

そもそも、仮に東日本に行っても、当時は、大半の土地は、荒れた僻地だったので、行ってもそこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。

 

それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。

「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」

ある時、こう決意したのだと思います。

しかし、海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。


そんなとき、一人の救世主が現れます。

「聖徳太子」

この人物が助けたのです。
聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが始まったのです。

救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。

 

私は、「聖徳太子=キリスト説」を主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。

聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。

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彼らにとっては、「西日本」は、まるで監獄にいるように、不自由な土地でした。

そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。
よいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!

 


熊野地方には、日本史における、最重要な寺があります。

「補陀落山寺」という小さなお寺です。

「世界遺産」に指定されています。

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「補陀落渡海寺」と書かれています。

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「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られているそうです。

私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。
ネットで調べると、こういう説明が出てきます。


「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある、観音菩薩の住まう浄土のことをいい、「華厳経」には、インドの南端にあると、説かれているそうです。

「観音信仰」の流布とともに、チベットや中国にも、「補陀落」は、想定されたようです。
チベットでは、ラサ北西に建つ、観音の化身、「ダライラマ」の宮殿を、「ポタラ(補陀落)宮」と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を、「補陀落」としたようです。

日本においては、南の海の果てに、「補陀落浄土」はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して、船出することを「補陀落渡海」と言ったそうです。
そして、この信仰を広げたのが、聖徳太子だったのです。

日本国内の補陀落の霊場としては、那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあったそうです。

記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち、半数以上が、この熊野那智で行われています。
熊野は、補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったようです。

聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは行われていたそうです。


チベットの「ポタラ宮殿」とも関係してたのですね。
そういえば、チベットも絶対平和主義の人たちが多く、そのために迫害されていますね。
ここも、日本の「天照派」と同じルーツだと思います。

 

「ポタラ宮殿」の地下は、地底王国の「シャンバラ」があると言われていますね。

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この写真は、2018年に、この寺を訪れた時のものです。

「補陀落山寺」の本堂の中には、当時の様子を描いた絵もありました。

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これもネットで調べると、こういう説明が出てきます。


那智の浜からは、25人の観音の信者が、補陀落を目指して船出したと伝えられています。

補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が刻まれています。
補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に行われたそうです。

渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で、読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだとも伝わっています。

渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に乗りこんだそうです。


説明は、さらに続きます。


渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には外から釘が、打ちつけられたそうです。

渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。

渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。

船のしつらえや渡海の方法などは、時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身、を南海にて観音に捧げる、捨身行だったのでした。


こう書かれています。
これが、一般的な認識です。

 

渡海僧が乗りこんだ船を復元したものが、境内にある建物のなかに展示されています。

これらの写真も、2018年の写真です。

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奇妙な形をした小さな船です。
船の上には屋形が、作られています。
その屋形の前後左右を、4つの鳥居が囲んでいます。

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人が一人だけ入ることができる、テントのような小屋があり、ここに僧侶が一人だけ入り、外からは釘が打たれ、中から出られないようにしていたそうです。

もちろん、現在のようなスクリューなどはなく、櫂も帆もなかったそうです。
だから、一度、海に出たら、クラゲのように、ただ漂うだけだったのです。

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さて、ここからが、いよいよ本番です!

 

「補陀落渡海」は、このように、昔も現在も、狂信的でカルトっぽい儀式だったと、世間一般では思われています。

しかし、よく考えてください。

こういう、「即身成仏」の行為をやる意味は、何なのでしょうか?
ましては、何のために、わざわざ、海の彼方に行って、死ぬ必要があったのでしょうか?

ただ死ぬだけのために、これをやっていたとしたら、ただの馬鹿だと思います。


勘の良い方は、もうわかりましたね。

そうです。

「西日本」から「東日本」への脱出が、真の目的だったのです!

「空と海の彼方の極楽浄土へ行くために、舟に乗って太平洋の彼方に行き、そのまま沈没して海の藻屑となり、即身成仏する」

というのは、「神武派」たちのグループの目を、ごまかすための偽りの儀式だったのです!


本当のことは、隠されていました。

実際には、こうだったようです。

 

途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から突き放したようです。

「よ~し! 行ってこ~い!」

こう叫んだかどうかはわかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。


すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。

そして、うまく、「黒潮」の乗れば、それは大きな河のような流れで、「東日本」まで、運んでくれたのです。

ちなみに、黒潮の最大流速は、最大で4ノット(約7.4km/h)にもなり、軽くジョギングしているくらいのスピードなので、1週間以内では、確実に、「東日本」にある、どこかの浜に漂着したと思います。

 

そして当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏にいろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前にその場所に着いていた人々が、打たれていた釘を外し、中からその僧侶を助けたのだと思います。

そして、その背後で、この秘密の脱出劇を計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。

 

黒潮です。

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「西日本」 ⇒ 「東日本」

これを繋ぐメインストリートが、海だったというのは驚きですね。
しかも、大きな船ではなく、「小舟」だったというのもビックリです。


私たちは、歴史においては、必ず、「民族大移動」という大人数でのイメージがありますが、それは大陸の話です。

聖書には、そう書かれていますが、日本では全く状況が違い、秘密裏に一人づつ、長い年月をかけての移動だったようです。

 

その期間、聖徳太子の時代から、江戸時代にかけて、なんと、1000年間くらい続いていたそうです!

これだけの長い年月をかけて、少しづつ、「天照派」の僧侶、つまり、本当の天皇家の一族を東日本に逃がし、そこで、おそらく現地の女性と結婚して、子孫を広げていくという活動をしていたのだと思います。

目的は、「平和」と「愛」の遺伝子を、未来の日本に残すためです。

 

 

お寺の隣には神社もあり、この神社の鳥居で、「補陀落渡海」の儀式は行われていたようです。

昔は、この鳥居までが海岸線で、ここが波打ち際だったようです。

以前に行った時の写真です。

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鳥居の横にある案内板です。

「浜の宮王子社跡」と書かれていますね。
ある時期、99番目で最後の「王子神社」だったそうです。

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この寺と神社の近くにある浜辺です。

「補陀落渡海」に乗って、東日本を目指した僧侶たちのことを想像すると、なんともいえない気持ちになりました。

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 一方で、東日本にある、房総半島の痕跡です。
2018年の春に、「補陀落渡海」の僧侶たちが、「西日本」から、「小舟」で辿り着いた場所に、行ってきました。

ここには、

「玉依姫という名前の神様が、陸に上がってきた場所」

という伝説が残っています。

そうです。

38人の子供たちの長女の子孫たちですね。

 

場所は、千葉県の「九十九里浜」です。

これも、もうわかりましたね。

「九十九人の王子のグループが辿り着いた浜」

こういう意味だったのです!


さらに、この「九十九里」という漢字を分解すると、

「九」+「十」+「九」+「十」+「口(くに)」+「土」

となり、意味は、

「三十八の国土」

という意味になります。

 

着く場所が、どうして港ではなく、ただのビーチだったのでしょうか?

砂浜だからいいのです。

砂浜だと、大きな船は接岸できません。
沖に錨を下ろして、小舟で来ることになります。
砂浜という地形は、小舟じゃないと上陸できないのです。

大きな船が接岸できる港だったら、すぐに追っ手に見つかってしまいます。
このプロジェクトは、秘密裏の脱出劇だったことを、忘れないでくださいね。


昔、ここで、「天照派」の僧侶が、「小舟」から仲間によって救助されて、上陸したと思ったら、大感動でした。
「浜鳥居」という名前だそうです。

これは、熊野の「浜の宮王子社跡」から名付けたと思います。

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「補陀落渡海」によって、「九十九里浜」に上陸した後、辿り着いた僧侶たちは、このルートを歩いたようです。

「浜鳥居」→「神洗神社」→「神埼神社」→「玉前神社」

大まかな地図です。

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房総半島においては、「玉前神社」のあたりに、一旦、落ち着いたグループもいたようです。
あるグループは、ここを定住の地に決めたようです。

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拝殿で参拝しました。
黒色は、珍しいと思います。
いろいろ考えたら、この色は、漆黒の闇、つまり、「宇宙」を表現していると思います。

 

そう思いながら、拝殿の屋根のあたりを見て、

「うわ~~!!」

と、大声で叫んでしまいました。

「宇宙の源」から、ツインレイである、「イザナギ」と「イザナミ」の魂が、最初は、「繭」のような形から、二つに分かれて、それから、二人の男女になる様子が描かれています。

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大感動でした~!
やはり、ここは、「イザナギ」と「イザナミ」の子孫たちの拠点だったのです。

 

 

このように、絶対平和主義の「天照派」の子孫たちが、西日本から、「小舟」で、東日本に移住してきて、つくりあげたのが、「江戸」という町なのです。
だから、「江戸時代」が、260年くらい平和だったのです。

江戸時代に、「お伊勢参り」というのが流行りましたね。
「一生に一度は伊勢詣」
昔は、こう言われたらしいですね。
他にも、「熊野詣」もありましたね。
「伊勢へ七度熊野へ三度」
とも言われていたそうです。

実は、あれの本当の意味は、大いなる里帰りだったのです。

そして、日本人の始祖である、「イザナギ」と「イザナミ」が、最初に結婚式を挙げたのが、「伊雑宮」だっったのです。
そして、熊野から、「補陀落渡海」で、東日本へ亡命してきたのです。
江戸時代の人々は、DNAの中に、その記憶があり、その記憶が騒いだのかもしれません。
「本当のお父さんとお母さんの故郷に帰りたい! 自分の魂のルーツに帰りたい!」
この気持ちが、「お伊勢参り」や「熊野詣」だったのかもしれません。


伊勢から始まった、生粋の日本人である、「天照派」の人々が、熊野の那智から、小舟で関東に流れ着いて、「江戸時代」をつくりあげ、そして、天下泰平になった頃、故郷の伊勢に、また帰りたくなった。
こう想像したら、またまた、じわじわと、感動の波が湧き上がってきました。

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繰り返しましますが、「江戸時代」が、なぜあれほど長い期間、大きな戦争がなかったかというと、この町の人々の遺伝子が、絶対平和主義の「天照派」だったからだというのが、真相だと思います。

そして、徳川家康を始めとする徳川幕府は、これを知っていたということです。

 

「徳川家康」は、「天照派」のリーダーだったようです。

「徳」は、「十九(とく)」だと思います。

つまり、19組で38人のグループである、「八百万の神々」の子孫だということです。

「川」は、横にすると、「三」で、「三つ巴」の意味だと思います。


関東に、「小舟」で流れ着いた、「天照派」が拠点にしていたと思われる神社や寺は、山ほどあります。


たとえば、東京都品川区にある、「鹿嶋神社」の境内には、大きな石碑があり、その横には、「ミカン」の木が植えてありました。
「橘」ですね。

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そういえば、聖徳太子の生まれた場所も、「橘寺」でしたね。
実は、補陀落信仰の中には、
「理想郷である、補陀落山には、橘の木がある」
という信仰があるのです。

ここは、間違いなく、「補陀落信仰」の聖地なのです。
「天照派」のグループが、
「ここが、自分たちの探し求めていた、理想郷だ!」
と言っているのです。

 


最初に大きな拠点にしたと思われる土地も、東京にあります。
ここから、江戸時代が、始まったと思われる所です。

 

西日本から小舟に乗って、少しづつ長期間にわたって、東日本の地に移住してきたパイオニアたちの子孫は、長男の名前が、「別雷尊」でしたね。

覚えていますか?
これは、生まれた時に、身体が、「丹生」という宇宙エネルギーで、輝いていて、まるで、身体に雷が落ちた時のように、発光していたから、この名前だったそうです。
現代風の表現では、「凄いオーラの持ち主」というかんじですね。


「天照派」のグループは、関東地方において、いくつの地点から上陸したようですが、ある時期に、東京のある場所で、一堂に会する機会があったと思われます。
なんと、その場所は、「浅草寺」だったようです!

ここにも、今月の上旬に行ってきました。

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有名な「雷門」です。

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「昔は、このあたりに、よく雷がよく落ちたから、雷門というのかな?」
私は長年、そう思っていたのですが、違うのです。
38人の子供の長男だった、「別雷尊」の名前から、これは名付けられたのだと思います。
「別雷尊のグループの拠点だった場所」
それが、「雷門」の場所なのだと思います。
「天照派」のグループの本部が、おそらく、ここにあったのだと思います。

 

ここの参道を歩いていて、一番驚いたのが、これです。
最初の「雷門」の次の門です。

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なっ、なんと!
デ~ンと大きく、「小舟町」と書かれているではないですか~!
人目もはばからず、
「うわーー!!」
と大声を上げてしました!
今までに、これの意味に気が付いた人が、どれくらいいたんだろう?

ジャ~~ン!!

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見てください!
「小舟に乗って、関東にやって来た人々が住んでいた町」
こう言っているのです。

実は、日本国内において、隠している秘密などないのです。
歴史の秘密は、どうどうと、目の前に提示しているのです。
問題は、
「それの意味を、正しく解釈できるかどうか?」
だったのです。

ここが、補陀落信仰の最終地、「観音菩薩」のいる聖地だったのです。

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境内には、「補陀落渡海」のシンボルが、たくさんあります。

 

本堂の横には、表から見ると、「人の群れ」を思わせる彫刻があります。

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しかし、裏から見ると、「波」に見えますね。

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「黒潮」が、この寺の本当の御神体なのだと思います。

遠くの看板が、私には、「橘(ミカン)」に見えます。(笑)

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ここにもありました。

表から見ると、ただの石碑です。

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しかし、裏側から見ると、「黒潮」と「小舟」に見えますね。

歴史の真実というものは、こうやって、隠されているのです。

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石碑の傍には、「カエル」がいます。

「蘇る(ヨミガエル)」で、「復活」のシンボルです。

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しかも、脚がないですね。

下半身が蛇の神様、「エンキ」です。

日本では、「イザナギ」や「宇賀神」、それから、「龍」や「ヒルコ」の意味もあります。

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面白い写真が撮れました。

遠くには、三つの塔がありますね。

もしかしたら、この角度から見るのが、正式なのかもしれません。

もちろん、「植物」と「動物」と「人間」の「三つ巴」の意味です。

「スカイツリー」が、「人間」の象徴なんじゃないかな?(笑)

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手前は、「プロビデンスの目」ですね。
これも、「エンキ」や「イザナギ」の意味です。

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これは、余談です。

 

境内にある「薬師堂」の前を通った時に、あることに気が付きました。

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「薬師堂」の文字を見て、ビックリしました!
見てください、「薬」という文字を!

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上の「×」の文字は、「人」に見えますね。
この「人」文字が二つあり、その下に、「楽」という文字があります。
「二人の人」は、「自分」と「仲のいい人」意味だと思います。
楽は、楽しいこと、つまり、ワクワクすることだと思います。


だから、「薬」の本来の意味は、

「自分一人だけでなく、誰か仲のいい友人と一緒に、ワクワクするような楽しいことをして遊ぶのが、一番の薬である」

ということなのです。


昔、何かの漫画で、余命2年だと、癌告知された男の子がいたのですが、「どうせ死ぬんだったら、病院で寝ているよりも、南米のアマゾン川流域で、冒険の旅をしてから死にたい」と言って、アマゾン川に旅しに行き、2年後に帰ってきて検査したら、癌が完治していたという話がありました。
まさに、そういうことだと思います。
もしかしたら、これからの医療は、病気になったら、楽しい旅に出かけるという治療が、流行るかもしれませんね。

 

浅草の近くに、「日本橋小舟町」という名前の街もあります。
ここは、現在は、東京都中央区の地名になっていて、昔は、日本橋区にあたる日本橋地域内だったそうです。
地名に、「日本」がついている所は、それほどたくさんはありません。

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この近くには、日本銀行もあります。

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江戸時代において、日銀の敷地内には、「銀座」ではなく、「金座」という土地があったのですが、ここで、金を造っていたそうです。

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「お金を造る」という一番大切な仕事をやっていたのが、どうやら、小舟で江戸に辿りり着いた人々の子孫たちだったようなのです。

 

さらに、聖徳太子が忍者を使って、隠れて連絡をとりあっていた頃から、ここに、「手紙」の文化が生まれたようです。

日本の郵便の発祥の地も、このあたりです。

2018年の写真です。

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日銀を始めとした、銀行の発祥の地でもあります。

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まさに、ここが、「日本」の発祥だったのです。
「邪馬台国」や「大和」や「倭」ではなく、「日本」という共同体が形作られたのが、ここだったのかもしれません。


「小舟町」=「日本」
もしかしたら、こう言ってもいいくらい、「補陀落渡海」で東日本に向かった僧たち、つまり、「天照派」の人々であり、愛と平和の一族、そして、「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供の子孫である本当の天皇家、彼らが、「日本」の礎を固めたのだと思います。
「古代において、日本という国は、小舟から始まった!」
この驚愕の史実は、これから、少しづつ広がっていくかもしれませんね。

 

 

ここからが、今回の栃木ツアーの話題になってきます。

 

このように、「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方にはたくさん残っています。
最終的には、和歌山県の熊野から渡海したグループは、栃木県の日光のあたりで落ち着いたようです。

東日本においては、「天照派」が、「黒潮ロード」に乗って、小舟で漂着した場所が、
「千葉県」&「茨城県」&「神奈川県」&「東京都」&「静岡県」
主に、この5ヵ所だったようです。

それから、「埼玉県」を通って、北関方面の「群馬県」と「栃木県」に向かったのが、大きな流れだったようです。
京都の「丹後」から始まり、関西を経由して、和歌山県の「熊野」から、小舟で、「東日本」を目指した「天照派」のグループの主なルートをシンプルに書くと、赤線のようなルートになります。

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さらに、特筆すべきことがあります。


私は、「補陀落渡海」を調べていて、
「九十九里浜のあたりから、日光まで歩いて移動した時は、大変な道のりだったに違いない」
と思っていたのですが、実際には、小舟で流れに逆らいながらも、上流へと向かうことができたようです。
もしかしたら、追い風の時には、とても楽に行けたかもしれません。

現在の千葉県銚子市のあたりから、栃木県日光市まで、古代においては、「香取浦」という大きな湾と無数の川があり、なんと、太平洋から、「日光」のあたりまでは、「鬼怒川」を使って、舟で一気に行くことができたようです。
「熊野」 ⇒ 「日光」
この間は、小舟で行けたということです。
1000年前の想像図だそうです。

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「補陀落渡海」の僧たちが後に、「補陀落寺」を建てた場所は、この川沿いが多いですね。
こうやって、地形で推測すると、かなり正確な歴史が把握できますね。



2018年に、補陀落渡海について、本格的な調査を始めたのですが、宇都宮市内をまわっていたら、この神社の名前が目に飛び込んできました。
「二荒山神社」という名前の神社です。

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「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と発音するそうです。

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もうわかりましたね。
「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」=「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」
こうなるのです。
この神社は、和歌山県の「補陀洛山寺」と、完全に繋がっているのです。
つまり、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「補陀洛山寺」の僧侶たちは、小舟で、「黒潮ロード」を渡って来て、関東の地へ上陸した後、栃木県宇都宮市にある、「二荒山神社」にも、辿り着いたということです。


この神社の拝殿の近くの灯篭の中に、不思議なシンボルがありました。
なんと、神紋が、「菊の三つ巴」です!

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私は、いろいろ調べた結果、この神紋が、日本の古代史において、最重要なシンボルだと思っています。
この神紋は、「三つ巴」と「菊花紋」が、合わさっていますね。
「日本という国家の中枢や奥底には、天照派のグループがいますよ」
こういう意味だと思います。
凄いシンボルですね~~!!


それから、しばらくして、別の日に、栃木県日光市にも行きました。
ここにも、同じ名前の神社があります。
「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」
という神社です。

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有名な「日光東照宮」の隣にある神社です。
ここにも、「三つ巴」がありました。
ここも、和歌山県熊野のお寺と、密接に繋がっているのです。


だから、こうなります。
「熊野 補陀洛山寺」=「宇都宮 二荒山神社」=「日光 二荒山神社」

一説によると、「日光」という名前は、弘法大師空海が、この地を訪れた際に、「二荒」を、「にこう」と読み、「日光」の字を当て、この地の名前にしたとも言われています。
「補陀洛」→「二荒」→「日光」
こうなったそうです。


和歌山県の「補陀落山寺」、それから、栃木県の二つの「二荒山神社」が見事に繋がりましたね。
やはり、「天照派」のグループが、終の棲家に選んだ土地が、ここだったのです。
ここで、メインのグループは、ここで居住を始めたと思います。


そして、大切なことは、「日光」という太陽の光は、古代において、いったん、ここで隠れるのですが、「日食」が、暗くなったあと、再び輝きだすように、そして、「天の岩戸開き」の天照大神が、籠ったあとに、再び顔を出すように、日本という国は、「不死鳥」というのが、シンボルマークでもあり、特性なのです。
「外国から、どんなに叩かれても、戦争で負けても、経済が悪くなっても、必ず復活する」
これが、「日本」という国の底力なのです。

そして、それを裏で支えているのが、裏の古代史に登場する「天照派」の人々なのです。

新時代になった、「令和」では、「丹の光」を放つ日本が、再び浮上してくると思います。

 

 

次回から、いよいよ、本格的な栃木の旅行記が始まります。

お楽しみに!

 

 

 

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