私は、1991年の春、24歳の頃に、輪廻転生という現象が真実だということに気が付き、むさぼるように、その方面の書籍を読みました。
「世の中には、なんて、たくさんの素晴らしい本があったのだろう!」
書店に足を踏み入れて、ビックリしました。
それまで、全く興味のなかった、「精神世界コーナー」という所が、宝の山だったことに、初めて気がついたのです。
それまで、ずーと、その前を通り過ぎていただけだったのですが、自分の心が開いたとたん、それらの宝の本に気が付きました。
「輪廻転生」を信じるようになると、程度によりますが、だんだん世界観が変化してくるようです。
つまり、物質的なものから霊的なものへ、興味の対象が少しづつ移行していくのです。
考えてみれば、私達の社会の悩みや苦しみ、悲しみなどは、ほとんどの原因が、
「私達は、死んだらもうお終いの存在である」
こういう思想に、あるのではないでしょうか?
死が終わりだと思っているから、なんとかこの人生で成功してやろうと思い、無理な努力、頑張りなどをやり、健康を害したり、人間関係が壊れるほどの競争をするのではないでしょうか?
また、死が終わりだと思うから、なんとか最高の結婚や恋愛をしようと思い、無理な関係を続けているカップルが、多いのではないでしょうか?
そして、死が終わりだと思うから、肉親や友人の死が、耐えがたい悲しみを引き起こすのではないでしょうか?
「私達は、永遠の存在であり、死は、その一つの過程にすぎない」
人間が、この真実に気がつくと、どれほど心が楽になることか…
「億万長者になる」とか、「出世して偉くなる」、「高級車を乗り回す」などは、この人生だけに目を向けた場合に、出てくる価値観だと思います。
もちろん、これらも大切なのですが、その成功は時間にして、せいぜい30~50年です。
永遠という膨大な時間の中では、まばたきをするぐらいの成功にすぎません。
逆に言えば、どんな苦しみ、悩み、悲しみも、永遠という時間を基準に考えると、とても小さな一滴の水のようなものです。
「輪廻転生」の思想は、地球上で、人間の歴史が始まった頃からあるようです。
一番長い歴史をもった思想だと思います。
インド、ネパールなど、現在でも、それを国民のほとんどが信じている国が、たくさんあります。
旧約聖書や新約聖書にも、元々は、「輪廻転生」は記述されていたそうです。
それを、紀元325年に、時のローマ皇帝、コンスタンチン大帝がその母とともに、新約聖書の中の、「輪廻転生」の記述を削除し、紀元553年にコンスタンチノープルで開催された、第二回宗教会議で、この思想が、「異端」だと宣言されたという歴史があるそうです。
人々が、「輪廻転生」を繰り返すことで、自分で成長できるという思想は、「教会はいらない」という思想になると、当時の権力者たちが、考えたのではないかという説があるそうです。
しかし、私自身は、それだけではないような気がします。
ご存知のように、「輪廻転生」を信じているインドやネパールなどは、経済があまり発展していません。
この思想には、デメリットもあるのです。
つまり、人によっては、
「どうせ、来世があるから、なげやりに生きてもいいや」
という考え方えをする人もいるからです。
もしかしたら、賢者たちが、そのデメリットも考慮に入れた上で、
「経済の発展の方が、当面は大切だ」
と判断して、削除した可能性もあるような気がします。
まあ、歴史の闇の中なので、まったく真相は、わかりませんが…
ただ、この思想は、歴史や国の経済、人々の生き方などに、絶大な影響を与えることは、事実のようです。
アメリカでは、エドガー・ケーシーのリーディングなどで、少しづつアメリカ人にも信じる人が出てくるようになったようです。
1981年のアメリカのギャラップ調査では、アメリカ人の23%が、「輪廻転生を信じる」という結果だったそうなのですが、1983年に、シャーリー・マクレーンが、「アウト・オン・ア・リム」を出版してから、急に、そのパーセンテージが、40%になったそうです。
そして、今でもその数値は、年々伸びつづけているそうです。
「前世療法」をやっても、完全に過去生の記憶を思い出す人は、3~5%だそうです。証拠まで残っている例は、極めてまれな例だそうです。
日本でも、1990年ぐらいから、この「前世療法」を行う専門家が増えてきているようです。
ぜひ体験してみることをすすめます。
「私達は、永遠の存在である」
ということが、本当にわかれば、とても幸せな気分になります。
理解した人の中には、なげやりな人生を生きる人よりも、圧倒的に、積極的に人生を生きる人の方が多いと思います。
科学的には、脳の視床下部という部分と側座核という部分が、催眠中の過呼吸によって、回路がつながり、長期記憶の中の「前世の記憶」が呼び覚まされる現象が、「前世療法」らしいのですが、まだまだ学者の中でも、大激論されていて、わからないことだらけだそうです。
いずれにしろ、この思想を受け入れると、必然的に、「人生の目的」が、けっして物質的なものではなく、「霊性を高めることだ」という思想になるような気がします。
そして、またこれは「無敵の思想」なのです。
私自身は、現在でも、楽しいことや素晴らしいことに毎日出会うたびに、ワクワクします。
そして、またポジティブ・シンキングをしながら生活しています。
しかし同時に、苦しみや困難、病気、事故などにも、たまに直面し体験します。
すると、
「よーし、これでまた、霊性が向上できそうだぞー、嬉しい!」
と考え、もう死ぬほど、さらにワクワクして、ポジティブ・シンキングができるようになるのです。
私は、これが正真正銘の本物のワクワクした生き方、ポジティブ・シンキングなのではないかと、考えています。
「幸福になると、嬉しい! 不幸になると、もっと嬉しい!」
これが、現在の私の人生哲学です。
最強です。(笑)
「生まれ変わり」については、今から63年前に、アメリカで大きな事件がありました。
スピリチャルなことを学んだことがある方は、聞いたこともあると思います。
有名な「ブライディ・マーフィー事件」です。
「ウィキペディア」によると、だいたい下記のような話です。
1952年に、アメリカのコロラド州で、実業家でアマチュア催眠術師のモーリー・バーンスタインが、顧客の1人で、ヴァージニア・タイという女性に対して退行催眠を行った際に、自分の誕生以前の記憶に戻った彼女が、アイルランド訛りの英語で、
「自分は、ブライディ・マーフィーというアイルランドの女性だった」
と話し始めたそうです。
左側が、バーンスタインで、右側が、ヴァージニアだそうです。
さらに、数回退行催眠を施した結果、ブライディ・マーフィーは、自分の生い立ちについて、さらに詳細に語り始めたそうです。
それによると、ブライディ・マーフィーは次のような女性だったそうです。
1798年12月20日、コーク生まれ。
赤毛である。
父・ダンカン・マーフィーは、法廷弁護士、母・キャスリーン・マーフィー。
プロテスタントであった。
20歳の時、弁護士のショーン・ブライアン・ジョセフ・マッカーシーと結婚し、ベルファストに移り住む。
結婚式はプロテスタント式で行った後、ベルファストでジョン・ジョセフ・ゴーマン神父によりカトリックの洗礼を受けた。
1864年、66歳で死去。自分の葬儀を見た。
他にも、アイルランドの歌や物語を聞かせた。
1956年、バーンスタインは、このいきさつを、「“The Search for Bridey Murphy”『ブライディ・マーフィーを探して』」という本にして、出版したそうです。
そして、それが100万部を超えるベストセラーとなったそうです。
この話は、さらに映画化もされたそうです。
催眠の状況を録音した記録も、また飛ぶように売れ、数十か国語に訳されたそうです。
それと共に、大きな論争を巻き起こし、
「ブライディ・マーフィーは、実在したのか?」
という本格的な調査が始まったそうです。
その結果、近所にあったという店や教会、地名など一致する点が、いくつかあったものの、ブライディ・マーフィーおよび、その家族とされる人物は、誰1人実在しなかったそうです。
ヴァージニアは中西部育ちであるため、中西部訛りの英語しか話せず、アイルランドに行った事もなかったとのことでした。
そして、後に、彼女が幼少期シカゴに住んでいた頃、近所に、ブライディ・マーフィー・コーケルという、似た名前のアイルランド系の女性が、住んでいた事が分かったそうです。
したがって、ブライディ・マーフィーとは、ヴァージニアの前世ではなく、彼女の頭の片隅に眠っていた幼い頃の記憶が、退行催眠で呼び覚まされた事により創作された、架空の女性であると結論づけられたようです。
しかし、アメリカでは、この事件をきっかけに、輪廻転生について興味を持ち、信じる人が増えたそうです。
ご存知のように、アメリカにおいては、1970年代くらいに、本格的な「ニューエイジムーブメント」が始まったのですが、それよりも、ちょっと前の1950年代に、すでに、その種まきがされていたのですね。
前述したように、「輪廻転生」という概念は、アジアが本家だと思います。
特に、チベットやインドなどでは、大昔から信じられている民間信仰です。
わが国、日本でも、聖徳太子が仏教を輸入してから、広く信じられてきたと思います。
そして、そのことが、国内で広がった出来事が、江戸時代にあったようです。
知る人ぞ知る、「勝五郎生まれ変わり物語」です。
最近、手にいれた冊子に、詳しく書かれていました。
だいたいこういう内容です。
今からおよそ200年前の江戸時代に、東京都八王子市と日野市を舞台におこった、後に、「ほどくぼ小僧」と呼ばれた勝五郎少年に起こった、とても興味深い生まれ変わりの物語です。
ほどくぼ小僧こと、勝五郎少年は、1822年に、中野村(現八王子市東中野)に住んでいた8歳の少年、勝五郎は、 自分はこの家に生まれる前は、程久保村(現日野市程久保)の藤蔵(とうぞう)という少年で、 6歳の時に、天然痘で亡くなったと話しました。
最初は、誰も勝五郎のいうことを信じないのですが、調べてみると、全部本当だということがわかり、 彼は、生まれ変わりの少年だと有名になったのです。
勝五郎には、「ほどくぼ小僧」というあだ名がついて、見物人までやって来るほどになりました。
しばらくして、勝五郎は祖母と二人で、程久保村の藤蔵の家を訪ねました。
すると、藤蔵の両親は、勝五郎を見て、
「亡き息子に瓜二つだ!」
と言ってとても喜んでくれたそうです。
この時、勝五郎は初めて行ったはずの藤蔵の家のことをよく知っていて、みんなをおどろかせました。
その後、両家は親戚のように仲良くつきあい、勝五郎は大人になってからは、 農業をして平凡な人生を送り、1869年(明治2年)に、55歳で亡くなったということです。
ここで終われば、勝五郎の生まれ変わりの物語は、いつしか忘れられ、現代にまで伝わることは なかったと思われます。
しかし現在、藤蔵と勝五郎の生まれた家、子孫、お墓の場所なども、詳しく具体的にわかっています。
それは当時、勝五郎と彼の家族が語ったことが、克明に記録されて残っているからなのです。
1823年(文政6年)2月、江戸から、池田冠山という大名が 勝五郎の家を訪ねてきて、詳しい話を聞き、『勝五郎再生前生話』という書物を書きました。
4月になると中野村を治めていた多門伝八郎という旗本が、 勝五郎親子を江戸に呼びだし、その内容を記録しました。
さらに、当時江戸にいた国学者の平田篤胤が、勝五郎を自宅に招いて、話を聞き、『勝五郎再生記聞』という書物を書きました。
この書物はのちに、彼が都(京都)に上り、上皇と皇太后に見せたところ、 とてもめずらしいと喜び、勝五郎の生まれ変わり物語は、都でも評判になったそうです。
明治30年には、日本の不思議な話を海外に紹介してくれた「小泉八雲=ラフカディオ・ハーン」が、 『仏の畠の落ち葉』という本の中で、「勝五郎の転生」を書き、アメリカとイギリスで出版したそうです。
いかがでしたか?
藤蔵は、勝五郎に生まれ変わって、大好きな両親に会いに来たんですね。
今から、200年以上前に、こんな出来事があったのですね~!
しかも、この話が、当時の天皇家まで知られることになり、さらに、海外にまで広がったというのが、凄いですね。
この生まれ変わりの物語は、広く海外の人々にも知られており、「中間生記憶」を研究している学者からは、 この分野の最も古くて正確な記録として注目されているそうです。
私が、着目するのは、江戸時代に、この事件が、大騒ぎになったということは、当時の日本人たちも、「輪廻転生」という現象は、半信半疑で、大半の人は、真面目には信じていなかったということです。
そして、さらに、重要なことは、この事件をきっかけに、「絆」というものが、家族だけでの血統や血縁だけではなく、「霊的な結びつき」など、もっと広い縁もあるのだということを、人々が受け入れ始めたということです。
ある学者は、
「大げさでなく、この事件を境にして、それまでの江戸時代を支配していた身分制度、つまり、士農工商が、終わりを告げたのではないか?」
こう分析していました。
私は、「勝五郎&藤蔵」の話を知って、居ても立っても居られなくなり、さっそく、現地調査に向かいました。
私は、若いころから現在でも、頭でゴチャゴチャ考えている暇があったら、行動する主義なのです。
今回、同行してくだったメンバーです。
まずは、「勝五郎の調査グループ」の事務所がある、日野市郷土資料館に向かいました。
小学校の建物の跡に、事務所がありました。
そこで、資料もいただき、詳しい場所などの説明も受けました。
ありがとうございました。
こういう書店では買えないような冊子は、私にとっては、何よりの宝物です。
まずは、転生する前の少年、藤蔵のお墓に行きました。
場所は、東京都日野市の高幡不動尊です。
こんな素敵な寺が、都内にあったことを、初めて知りました。
この境内の奥にある墓に、藤蔵の墓があります。
ちゃんと、案内板もあるのに驚きました。
近くには、お地蔵さんと記念碑があります。
ここから、ちょっと歩いた奥に、藤蔵の墓があります。
記念撮影しました。
前世の藤像の家から、転生した先の勝五郎の家までは、約5キロだそうです。
現在の地図で示すと、こうなるそうです。
なんと、現在の中央大学の構内には、「勝五郎の道」という名前の道も残っているそうです。
ちょうど、構内の中央を通るそうです。
だから、「中央大学」というのかな?(笑)
こんなかんじで、標識もあるそうです。
ここを、今から200年前、勝五郎と祖母が、二人で歩いて、自分の前世である、藤蔵の家に向かったそうです。
ここが、勝五郎の墓のある寺です。
場所は、八王子市にある、永林寺です。
意味深な名前ですね。
私はこれを見て、すぐに、この寺が、天照派の重要な拠点だった所だということに、気が付きました。
徳川家の家紋もあります。
案内板です。
入口では両脇で、十六羅漢がお出迎えしてくれます。
記念撮影しました。
ユニークな仏像が、たくさんあります。
仁王像が、「OK!」のサインを出しています。
珍しいですね。
このハンドサインは、「三つの六」で、「666」の意味もあります。
つまり、「弥勒菩薩」です、
本堂に向かいました。
扉には、「菊家紋」がありました。
ミカンのグループで、天照派ですね。
本堂です。
後で知ったのですが、この近くには、「岩船地蔵」も置いてあったようです。
これは、「岩船地蔵信仰」と言って、江戸時代にブームになった石像だそうです。
明らかに、「補陀落渡海」ですねー!
だとしたら、勝五郎も、天照派の重要人物だった可能性が大きいです。
何かの使命があって、天上界から遣わされた使者だったということです。
この寺の墓に、勝五郎の墓があるのですが、探すのは大変でした。
寺の方に、最後は教えていただきました。
勝五郎の墓です。
大感動でした。
境内には、美しい三重の塔もありました。
これは、余談です。
先ほど、中央大学のことを書きましたが、この大学の出身者には、昭和の時代に、最初のスピリチュアルブームを巻き起こした、丹波哲郎さんがいます。
映画「大霊界」で一世を風靡しましたね。
それから、平成の時代には、丹波さんが、可愛がっていた秘蔵っ子である江原啓之さんが、「オーラの泉」で有名になり、再びスピリチュアルブームが、再熱しましたね。
これらの流れは、偶然だと思いますか?
もしかしたら、一連の流れも、神の計画どおりだったかもしれません。
丹波さんはちょうど、勝五郎の事件から100年後くらいに、東京都新宿区に生まれています。
そして本名は、丹波 正三郎(たんば しょうざぶろう)で、「正」で、「五」の意味の漢字が入っています。
もしかしたら、丹波さんは、勝五郎の生まれ変わりだったかもしれませんね。
名前の漢字にも、天皇家の意味の「丹」も入っていますね。
最近知ったのですが、なんと、丹波哲郎さん、「勝五郎」の映画を製作していたようです!
ビックリですね〜⁉️
この流れ、ミラクルですね〜
映画の中では、丹波さんご自身も、勝五郎の守護霊や龍神様の役で登場しています。
その動画、下記にアドレスを貼っておいたので、ぜひ見てください。
感動して目から涙が出てきました。
丹波さん、こんな素晴らしい映画を作っていたのですね。
次回に続きます。
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